アルノルト・シェーンベルク

アルノルト・シェーンベルクの説明


長調や短調などの、これまでの調性音楽という常識を覆した作曲家、アルノルト・シェーンベルク。

アルノルト・シェーンベルクの生涯


彼は1874年の9月13日、オーストリアのウィーンに生まれました。
シェーンベルクは三人兄弟の長男で、父親は商人で、結婚後は夫婦で靴屋を営んでいました。
父親は音楽好きで、若い頃は合唱団に入っていたこともありましたが、いたって普通の環境でシェーンベルクは育ちました。

しかし彼は8歳になるころにはバイオリンの弾き方を覚え、それと同時に作曲もし始めたのです。彼自身はのちに、街で聞こえてきた音楽たちの真似に過ぎないと語りましたが、それにしても音楽への情熱が感じられる特徴だと思います。また彼は、家にあったモーツァルトの伝記を読み、ピアノを弾いたりして音を出すことに頼らずに作曲しようと思い立ったほどです。

そんななか、彼の父親がインフルエンザによって若くして亡くなってしまいました。16歳になるシェーンベルクは卒業を待たずに中学校を中退し、お金を稼ぐために民間銀行の社員になったのです。
しかしこの銀行が倒産してしまい、仕事を嫌がっていた彼はこれを期に銀行勤めを辞めました。彼はその決心をして家に帰り、こう言いました。『僕はもう嫌だ! もう会社になんかいかない。僕は音楽家になるんだ!』。この宣言に家族内では大いにもめて、親族が集まり会議をしたほどだったそうです。

そしてその後彼が21歳になるとき、ポリヒムニアという小さなオーケストラの団員になりました。この入団は彼にとって大きな運命で、オーケストラの指揮者が有名な作曲家であり指揮者だったアレクサンダー・フォン・ツェムリンスキーだったのです。
ツェムリンスキーはシェーンベルクにとっての最初の音楽教師でした。
お金がなく、がらくた市で買ったチェロを弾いていたシェーンベルクに、ツェムリンスキーは音楽の理論などを教え、時には仕事も与えてくれました。

そうしてシェーンベルクは23歳のとき、『弦楽四重奏曲 ニ長調』という曲を作曲しました。この曲は彼が作曲した作品のなかでも初めて公に発表した曲です。そうして演奏されるととても好評だったので、彼の次の作品の発表の場を確保することもできました。
この作曲家デビューの翌年から、彼はより一層作曲に力を入れました。多くの歌曲を作曲し、そしてその楽譜を出版していきました。

1901年、27歳になるシェーンベルクは、音楽を初めて教わったツェムリンスキーの妹、マティルデ・フォン・ツェムリンスキーと結婚しました。彼女はとてもおとなしく、物静かな女性だったといいます。

その後、シェーンベルクは30歳の頃、「創造する音楽家協会」という組織を作りました。創造は、作り出すという意味での言葉です。この協会の狙いは、「自分たちと聴衆との間の直接の関係の確立、ウィーンに同時代の音楽を育成することのできる場を設けること、聴衆に音楽の現状についての知識を絶やさず与えること」でした。つまりは音楽を演奏する人と聞く人を繋げ、聴く人たちにも音楽界の現状についてを教え続けようということです。
ウィーンは音楽の都とされていますが、新しい音楽がそこから羽ばたくことは少なかったのです。なのでこの協会の役割は、若い作曲家たちにとってもありがたいことでした。

1910年、彼が36歳になる年に、彼は展覧会を開きました。彼が描いた絵を展示する展覧会です。シェーンベルクは音楽だけでなく、絵描きとしてもプライドを持って取り組んでおり、自分にとって絵を描くことは作曲することと同じ意味を持っているといったほどです。

音楽活動では『グレの歌』という曲が、作曲されてからおよそ15年してようやく初演されることになりました。この曲は600人の合唱団、5人の独唱者、語り手が一人、150人で編成されたオーケストラが必要でした。そんな大作を、客席を満員にできることを条件に演奏されました。そしてこの曲は無事に大成功し、観客にも喜んでもらうことができました。
この曲は偉大な作曲家ワーグナーの影響を受けており、彼はこの曲を作るにあたってワーグナーのとてつもなく長いオペラを何十回も聞き、隠された旋律までも覚えてしまうほどに聞き、分析し、シェーンベルク自身の作曲技法に取り込んでいきました。

彼が40歳になるころ、作った曲の演奏で指揮を振るためにイギリスやオランダに演奏旅行にしに行っており、とても忙しい状況でした。しかし1914年に第1次世界大戦が始まってしまい、彼も翌年には軍へ入隊しなくてはならなくなりました。彼は自分が作曲家であるということを隠して生活していたそうです。
軍隊にいながらも作曲のことは考え続け、『ヤコブの梯子』という大作書き始め、ちょうど軍隊から解放されるとその作曲に力を注ぎました。第1部のスケッチはわずか3か月という早さで書き上げられましたが、2度目の軍隊への入隊をさせられてしまい、これは未完に終わってしまいました。台本の中に「こうしてお前の自我は消え失せた」と書かれ、その言葉の隣に「1917年9月19日、軍隊へ入隊」と書き込まれています。
この曲は後に彼が亡くなった後、弟子たちによって完成されました。

その後、1917年に彼は作曲のための講座を開きました。この講座は音楽院や大学でのっ厳格な授業に対抗したもので、よりオープンな講座として開きました。この講座にはおよそ100人ほどの人が集まりましたが、徐々に数は減っていき、講座を開く場所を学校から自宅に移すほどでした。しかしついてくる生徒も勿論いて、シェーンベルクの近くで学ぶために家族を連れて引っ越してくる弟子がいたり、遠い所からはるばるやって来る弟子もいたそうです。

その後、彼の音楽の特徴として大きく占める運命が動き出します。「十二音技法」という新しい作曲技法、つまり作曲のやり方が思い浮かんだのです。
「十二音技法」とは、1オクターブの中の12音、つまりはドレミファソラシの白い鍵盤部分と黒い鍵盤部分のすべての部分を、どの音も繰り返さないようにして並べた音の列のことです。いままでの長調や短調の考えとは違う、新しい作曲のやり方を考え付いたのでした。

そして1923年、彼は多くの友人や弟子たちを自宅に招き、十二音技法を、それによって作った曲を例えに使い説明しました。その招かれたうちの一人がノートをとっており、のちにそれを基にしてこの十二音技法についての本を出版することになりました。

しかし同じ年、彼の妻が亡くなってしまいました。シェーンベルクは彼女が亡くなったショックからか、一日に60本もの煙草を吸い、3リットルものブラックコーヒーや酒を飲み、鎮静剤などの薬もとっていたそうです。
翌年、弟子であり友人であり、演奏者としてシェーンベルクと仲が良かった人物が妹と再婚しないかという話をもしかけ、彼はそれを承諾しました。

1924年、彼の50歳の誕生日には、友人や弟子たちによるシェーンベルクの作品の分析や、エッセー、回想、お祝いの言葉などが載せられた文集が出版されました。この文集にはシェーンベルク自身も始まりに自分の音楽の現状などをまとめたものを乗せました。そこに記されているように、この頃にはもう彼は世界に認められている作曲家になっていました。

その後、彼は51歳の頃にベルリン芸術アカデミーの作曲家教授に就任することができました。作曲や音楽活動を進めていき、ますが、1933年、教授を務めていたベルリン芸術アカデミーを追放されてしまいました。シェーンベルクは、元ユダヤ教徒だったからです。このころ、ヒトラーによるユダヤ人の迫害が強まっていた時期で、アカデミーの教授だろうと、ユダヤに関わる人物は居場所を奪われていったのです。

そうして彼はアメリカに亡命しました。ロサンゼルスに行き、カリフォルニア大学で作曲を教えました。教えながらも彼自身の作品は生まれていきました。『バイオリン協奏曲』や『第4弦楽四重奏曲』などのどれも大成功を収める曲を書きました。
そして1940年にはアメリカ市民権を取り、アメリカ人として活躍をしていきました。
1944年にはカリフォルニア大学を定年退職しますが、この頃あたりから彼の心の中には不安が付きまといました。被害妄想にも近いくらいに、自分の作品や技術が誰かに盗まれてしまうのではないかと怯えていたそうです。

そんな彼は、1946年、心筋梗塞の発作に襲われてしまいます。すぐに心臓に直接アドレナリンが注射され、一命は取り留めましたが、1951年7月13日、彼は76歳でこの世を去りました。

新しい音楽技法を作り出したシェーンベルク。最初こそ評価はあまりされていませんでしたが、いまでも彼の編み出した技法は受け継がれています。

「シェーンベルク」エーベルハルト・フライターク著 宮川尚理 訳

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