イサーク・アルベニス

イサーク・アルベニスの説明


民族音楽に影響を受けた、作曲家でありピアニストでもあるイサーク・アルベニス。

イサーク・アルベニスの生涯


彼は1860年5月29日、スペインのカタルーニャに生まれました。
父親は税官吏という税金を扱う仕事をしている人で、直接音楽に関わりのある人ではありませんでしたが、生まれた子供たちはみな音楽の才能に恵まれていました。そのなかでもこのイサーク・アルベニスが特に才能が溢れていたそうです。
彼は4歳の時にはすでにピアノを演奏することができており、バルセロナにある劇場で姉と一緒に公開演奏会を行ったそうです。そんな彼は生まれながらに音楽の才能に溢れており、当時から天才だといわれていました。

6歳の頃、母親に連れられてパリへ行き、ドビュッシーやビゼーなども教育したモンマンテルというピアニストであり教育者である人物のもとに向かい、彼に音楽を学びました。

そいてその後、彼はドイツのライプツィヒにある音楽院で勉強をし始めますが、すぐに転校し、16歳になる1876年にベルギーのブリュッセル王立音楽院で学ぶことにしました。
その4年後、当時から有名な作曲家フランツ・リストに直接音楽のことを教わろうと、彼がいるハンガリーのブダペストに行ったのですが、彼はすでにドイツに移ってしまっていたため会うことはできませんでした。

そして1883年、23歳になる彼は作曲家であり教師もしていたフェリペエ・ペドレルという人物に会い、彼にスペイン音楽の作曲をするよう薦められました。この勧めにより1886年に作曲されたのがいまでも有名な『スペイン組曲』です。
この『スペイン組曲』というピアノ作品は、いまは全8曲で第1巻分になっているのですが、もともと4曲しか作曲されておらず、残りの4曲はタイトルしか残されていませんでした。しかし彼の死後、出版社がこのタイトルだけ残された状態に、彼の他の曲をあてがって出版をしたのです。そうして今広く知られている『スペイン組曲』の第1巻は、彼が意図して作曲した『第1番グラナダ』『第2番カタルーニャ』『第3番セビーリヤ』『第4番カディス』と、出版社によってあてがわれた『第5番アストゥリアス』『第6番アラゴン』『第7番キューバ』『第8番カスティーリヤ』が収録されています。
すべてスペインに関係しているタイトルと曲の雰囲気を持っており、『第1番グラナダ』は22歳の頃に過ごしたグラナダでの独特の空気感をとても気に入っていたことが影響されているといわれています。『第2番カタルーニャ』はカタルーニャ地方で伝わるハーディ・ガーディという楽器の音を模して書かれています。『第3番セビーリヤ』は舞曲の速いテンポと、それとは反対の哀愁漂う雰囲気が合わさった曲です。『第4番カディス』は港市であるカディスの雰囲気を想わせる曲調です。スペイン風の舞曲のリズムにあわせて、のびやかに旋律がうたわれそして情熱的な中間部を経てまたスペイン風舞曲のリズムで終わります。
残りの4曲もすべて彼自身が書いた曲なので、どこかスペインらしさを感じる、独特の曲調をしています。ちなみに『第7番キューバ』というタイトルは、当時キューバという国はスペインの領土だったために含まれています。

このころ『スペイン組曲』を書き始めた時期、彼はロジーナ・ホルダーナという女性と結婚をしました。彼女はもともとアルベニスの弟子でした。彼女との間には1人の男の子と2人の女の子が生まれ、5人家族として生活をしていきました。

そして彼らはスペインのマドリードに移り住み、アルベニスはコンサートピアニスト、作曲家、教育者として名前を広めていきました。スペイン王家にも出入りし、貴族社会と関わりを持つこともできました。
またこのころフィリップ・ペドレルという民族音楽を得意とする作曲家に作曲方法を習いに行ったアルベニスですが、彼は「ピアノの文献に触れるように」とアドバイスだけしたそうです。これはアルベニスの才能を見抜いたうえでの発言だったといわれています。

そして彼はその後さらに活動を広げるため、フランスへ、イギリスへ、ベルギー、ドイツ、オーストリアなど、国外へ演奏旅行にいき、各地で成功を収めていきました。

その後、彼はイギリスのロンドンへ行きました。そこで銀行家の人物と知り合い、いい金額の年金を受け取るかわりに、オペラの作曲をすることを約束しました。そこで作られたのが『ペピータ・ヒメネス』という作品です。

彼らはいったんスペインのマドリードに戻りますがフランスのパリへと移り住み、アルベニスは主に劇場の作品用に作曲を書いていきました。
このパリにいるとき、これまで演奏旅行で知り合った友人や、フォーレ、ドビュッシーなどフランス音楽を引っ張っている作曲家たちと親交を深めたりもしました。この刺激と影響は彼自身の作風にも大きく影響されたといわれています。

その後、1897年にはスコラ・カントルムという音楽学校のピアノ講師としても働き始めました。

しかし40歳になる1900年に腎臓に病気を持ってしまい、ピアノ講師を辞め、比較的作曲中の負担がすくないピアノ曲を作るようになりました。
そして1905年以降に作られた12曲のピアノ作品『イベリア』はいまでも有名な曲になっています。この曲はいまでもピアノの発表会によく使われたり、ギター用に編曲されて演奏されることも多い曲です。
彼自身が巧みな演奏技術を持っていたため、彼の作り出した作品はどれもその技術を垣間見れるような作品といわれています。
なかでもこの『イベリア』は、この時代を代表する、歴史的な曲として重要な位置付けがされる曲です。
民族的な作風を超えた、近代的で洗練された作品のこの曲は、彼ののちに活躍する作曲家たちに大きな影響を与えました。
演奏するのも非常に難しく、両手はアクロバティックに動き回り、高速で連打しなければならなかったり、生き生きとしたリズムを目立たせなければならなかったりと、かなりの技術が必要だとされています。

また彼は即興演奏の録音を残しています。この録音された即興演奏は楽譜にも書き起こされ、CDつきの楽譜として出版されました。

そんな彼ですが、1909年、フランス滞在中に48歳という若さで亡くなってしまいました。

彼はオーケストラやオペラ作品も書きましたが、特にピアノ曲を多く残した作曲家でした。
当時からヨーロッパ中の音楽会で高い評価を得ており、有名な音楽家として活躍していました
また1996年にベルギーの天文学者が見つけた小惑星に、彼の名前がつけられもしています。
彼の過去に関しては、小さい頃に音楽院のガラスを割って入学を拒否されたり、12歳で放浪の旅に出たという伝説があったのですが、最近になってそれは作り話だったということが解明されました。しかしそれでも彼の天才ぶりは作品に現れているため、そんな彼の音楽はいまでもたくさんのピアニストたちや、音楽愛好家たちに愛され続けています。

参照

Wikipedia
https://piano-space.com/composer-profile-isaac-albeniz/
https://enc.piano.or.jp/persons/10

ENG »