イーゴリ・ストラヴィンスキー

イーゴリ・ストラヴィンスキーの説明


20世紀を代表する作曲家の一人といわれるイーゴリ・ストラヴィンスキー。

イーゴリ・ストラヴィンスキーの生涯


彼は1882年6月17日、ロシアのロモノソフというところに生まれました。彼の父親は真面目な性格で、歌手もしていました。母親もよく子供のことを考えてくれる人で、ピアノが上手だったそうです。イーゴリ・ストラヴィンスキーにはグーリーという弟がいて、彼も音楽好きで歌手になろうとしていましたが、早くに亡くなってしまいました。

ストラヴィンスキーは過保護に育てられ、自分の部屋の中で過ごすことが多かったといわれています。スポーツなどの激しい遊びは禁じられていたため、体が弱かったとも言われています。
彼の両親は息子たちを音楽家にしようとは思っていませんでしたが、ストラヴィンスキーが9歳の頃にはピアノのレッスンに通わせていました。
父親の影響から、ストラヴィンスキーは舞台音楽と劇に興味を向けていました。彼は父親が持っていた大量のオペラの楽譜をみつけ、それを弾いたりもしたそうです。
次第に彼は即興で演奏をし始め、作曲の初歩的な楽しみを見つけました。しかしそんな音楽の才能を伸ばしていくストラヴィンスキーでしたが、両親はそれをどうにかやめさせようとしていました。しかしそんななか彼の音楽の応援をしたのは親戚の伯父さんでした。ストラヴィンスキーは伯父の家で、彼にとって初めての作品『ピアノのためのソナタ』を書いたといわれています。

しかし両親は彼を法律家にしたかったため、ストラヴィンスキーは法律の勉強をするために学校に通っていました。しかし授業の出席は自由だったため欠席を繰り返し、その時間を使って有名な作曲家リムスキー・コルサコフに音楽の理論などを教わっていました。

1906年、大学を卒業した彼は、幼馴染であり従姉でもあったエカテリーナ・ノセンコと結婚しました。そして4人の子供が生まれ、そのうちの一人スリマという次男はピアニストと作曲家として音楽家の人生を歩みました。
しかしストラヴィンスキーは何度か不倫をしており、バレエの踊り手や、有名ブランドを立ち上げたココ・シャネルとも浮気をしていたといわれています。

そんなkレですが1908年、音楽の先生であるリムスキー・コルサコフの娘が結婚するということで、ストラヴィンスキーは『花火』という題名の管弦楽曲を作曲し捧げました。
そしてこの頃、彼はオペラという大きな作品を作ることを計画し始めました。オペラ『夜鳴きうぐいす』の制作に取り掛かり始めたのです。
同じ年に、リムスキー・コルサコフの娘に捧げた『花火』をオーケストラ版に編曲して、音楽の先生であるリムスキーに見てもらおうと楽譜を送りましたが、彼はその前に亡くなってしまっていました。それを知ったストラヴィンスキーは急いで彼の家に向かいました。そしてストラヴィンスキーはリムスキーとの思い出をたたえた『葬送の歌』という曲を作曲しました。

そして彼は代表作にもなるバレエ『火の鳥』を作曲し、大成功を収めます。そしてさっそく次なる代表作のバレエ音楽『春の祭典』の曲の構想を練り始めました。それと同時に『ペトルーシュカ』も作り始めていました。
1911年に『ペトルーシュカ』は上演され、大好評で何度もいろいろなところで上演されました。しかし『春の祭典』は批評の嵐でした。そしてその『春の祭典』が発表されてすぐ、ストラヴィンスキーは腸チフスという病気にもかかってしまったのです。
初演では批判された『春の祭典』ですが、翌年にピエール・モントゥーという指揮者によってバレエの踊りを抜きにした演奏会として再び上演され、そこで評価が上がりました。初演の時とは反対に、熱狂的な拍手が起きたのです。

その後、スイスにいるときに第1次世界大戦が始まってしまい、しばらくスイスに滞在していました。その間に『きつね』や『結婚』『兵士の物語』などを作曲していましたが、戦争中にはほとんど上演する機会がありませんでした。

その後、一躍有名になったストラヴィンスキーは弦楽器を使った曲や、合唱曲など、バレエよりは規模の小さい曲を書きました。
また、アメリカで流行していたジャズの曲調を取り込んだ『ラグタイム』という曲を書いたりもしました。しかしこのとき彼はスペイン風邪にかかってしまい、再びベッドで休まなくてはならなくなりました。

体調も回復し作曲活動も再開したストラヴィンスキー。1924年には自分の作品をピアノで演奏し、演奏者としてもデビューしました。その後、演奏会で指揮を振ったり、演奏旅行にでかけたりして活動の幅を広げていきました。

そして1939年、第2次世界大戦が始まってすぐの頃、アメリカのハーバード大学から音楽についての講義を開いてほしいと招待され、彼はアメリカへ旅立ちました。
アメリカでも彼はとても人気で、大勢の学生がレッスンや助言を貰いたいといって押しかけてきたそうです。

また、ちょっと変わった依頼も受けました。サーカス団からの依頼で、何頭かの象による動物バレエのために曲を書いてほしいと注文されたのです。そして書かれたのが『サーカス・ポルカ』という曲です。

1959年には日本に着て、日比谷公会堂と大阪のフェスティバルホールで演奏会を行いました。このとき、武満徹という日本人作曲家をストラヴィンスキーは見出し、彼を世界に紹介しました。

その後、1962年に自分が生まれた国、ロシアに向かったストラヴィンスキー。1914年にそこを離れて以来の48年ぶりの里帰りでした。
ロシアでは彼をまるで神様が来たかのように迎えられました。テレビでは「われわれの時代のもっとも偉大な作曲家」と表して放送したりもしたほどです。
ストラヴィンスキーはそんな大歓迎を受けましたが、ふたたびアメリカに帰ることにしました。アメリカでの生活の方が、作曲がしやすいと感じていたからです。

そんなストラヴィンスキーですが、やがて体の調子も悪くなっていき、ついに84歳になる1966年には作曲を辞めてしまいました。その翌年、指揮者としての活動も行わなくなり、今まで書いた曲の編曲のいくつかにとりかかるくらしでした。
ですが1967年には胃潰瘍と血栓症という病気に悩まされ、長い間入院しなくてはならなくなっていました。
彼は自分で演奏することはできなかったのですが、レコードで音楽を聴いて日々を過ごしていたそうです。
そして1971年4月6日、88歳でストラヴィンスキーはこの世を去りました。

彼が亡くなってから作品の評価が上がることも多かったのですが、それでもロシアでの歓迎ぶりから彼が当時から偉大な作曲家だったということが分かります。彼の音楽の新鮮さはまだ色あせることはないでしょう。

・『不滅の大作曲家 ストラヴィンスキー』ミシェル・フィリッポ著 松本勤、丹治恒次郎 訳 音楽之友社
・Wikipedia

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