エドバルド・グリーグの説明
ノルウェーに生まれ、ノルウェーを中心に活動したグリーグ。彼は自分の国の音楽の社会的立場と民族音楽という分野を引き上げた偉大な作曲家です。
エドバルド・グリーグの生涯
エドバルド・グリーグは1843年6月15日にノルウェーのベルゲンで生まれました。彼の家系は3代にわたって貿易の仕事に就き、文学や音楽にもたしなんでいました。母親は名家の出身で、ピアノの腕も良く詩や戯曲を書く才能も持っていました。グリーグは母親のピアノを聞いて育ち、彼自身も6歳のころにはピアノのレッスンを受け始めていました。母親のレッスンは厳しかったのですが、そのおかげもあってグリーグの腕はどんどん磨かれていきました。また彼は即興で演奏することが好きで、自由な発想を膨らませる方が得意だったそうです。
彼が9歳の時にベルゲンの郊外に引っ越し、転校した学校に楽譜を持っていたことがありました。しかし先生からはもっと勉強に身を入れなさいと叱られ、褒められることはありませんでした。彼はこの悔しさから学校をさぼりがちになってしまいました。
そんなグリーグですが、1858年、オーレ・ブルというノルウェー出身のピアノ奏者と出会います。彼に出会ったグリーグは「握手をしたとき雷に打たれたような感じがした」と語ったそうです。そしてグリーグはオーレ・ブルの前でピアノを弾き、オーレ・ブルは熱心にそれを聞きました。そしてグリーグをドイツのライプツィヒ音楽院で勉強させるようにと両親を説得したのです。同じ年の10月、グリーグは15歳にしてライプツィヒ音楽院に通うためにドイツへ向かいました。
しかし学校嫌いのグリーグはこのライプツィヒ音楽院も嫌っていました。校風が性に合わなかったのです。代わり映えのしない授業やレッスンや、厳しい規則の毎日に嫌気がさしていました。それと同時にノルウェーの山や海などの自然の空気が恋しくなり、ホームシックになっていたのです。
また1860年の春、彼はひどい胸膜炎になってしまい、その後遺症で彼はずっと呼吸器の障害に苦しむことになってしまいました。一度実家に帰り、ひと夏を過ごしてからライプツィヒ音楽院に戻りました。音楽院のことは嫌いでも、音楽の勉強には貪欲だったのです。
そして1862年優秀な成績を収めてライプツィヒ音楽院を卒業しました。「卓越したピアニスト」「もっとも作曲の美味い生徒の一人」と先生たちからも絶賛されましたが、グリーグ自身はまだ自分の能力に自信を持てずにいました。また彼は「ライプツィヒでは一流のオーケストラや室内楽をじかに聞けて幸せでした。おかげで音楽院では教えてもらえなかった作曲の勉強になりました」と皮肉のように言い、さらに「音楽院での3年間で将来に繋がるようなことは、何一つ見出せませんでした」と付け加えました。
その後『交響曲 ハ短調』を作曲しましたが、どうにも気に入らず二度と演奏せずに終わりました。彼は交響曲のように大きな作品よりも、小品などの方が向いていたのです。そして彼は民族音楽にも魅力を感じていました。そこでノルウェーの各地をめぐり、そこで聞いた民謡のメロディーをつかってたくさんのピアノ曲を書きました。『ピアノ協奏曲 イ短調』は冒頭部分からそうしたノルウェーの民族音楽の影響が強く表れている作品でもあります。
また彼はオーケストラの指揮をつとめる機会が増えました。彼の音楽人生にとって指揮者という役割は今後もとても大きな部分となります。彼は神経の細かい指揮者だったといわれ、ドビュッシーはグリーグの音楽を嫌っていましたが指揮に関しては「あの年にして意欲的に、すみずみまで注意を払ってオーケストラを指揮している。どんな微妙な違いも見逃さず、音楽を豊かに表現している」と言って敬意を表したほどです。
さらに1867年、グリーグはニーナというアマチュア歌手と結婚式を挙げました。幸福な新婚生活のなか『抒情小曲集』という今でも有名なピアノ曲を書きました。これもノルウェーの民謡のリズムやメロディーが基になっている作品です。二人の間に女の子が生まれた後、グリーグは珍しく大曲を完成させました。それが『ピアノ協奏曲 イ短調』です。この曲はノルウェーの音楽の象徴として初演も大成功し、多くの人々に印象を与えました。この『ピアノ協奏曲 イ短調』には有名ピアニストのフランツ・リストも絶賛しました。これこそ本物の北欧の音楽だと言って感激し、グリーグはその言葉に励まされ、作曲活動の支えとなりました。
さらにグリーグは管楽器組曲『ペール・ギュント』というノルウェーに実在した人物を基にした詩の劇音楽を作曲し、大成功を収めます。曲の知名度だけでなく、グリーグ自身も有名になりました。またグリーグと共に制作に携わっていたイプセンという劇作家はとても気難しく頑固な性格だったのですが、グリーグの明るい性格のおかげで心開き親友のように付き合っていたそうです。
そしてこの『ペール・ギュント』の成功の後、グリーグは村の学校の教室を夏休みのあいだ借りて、そこを「作曲部屋」として使っていましたが、海辺の小さな丸太小屋で作曲するようになりました。しかし村人が絶えず覗きに来て集中できなかった彼は、その小屋を山の中腹に引っ張り上げてもらい、より静かな環境で作曲をしました。そのとき作られたのが『弦楽四重奏 ト短調』です。雄大さと生命力にあふれたこの曲は、静かで集中できる山の中で作られたのです。
グリーグはそこで作曲した『弦楽四重奏 ト短調』や『バイオリン・ソナタ第1番 ヘ長調』などの曲をドイツのライプツィヒで演奏し、大絶賛されました。グリーグは音楽家の卵ではなく、ノルウェーを代表する有名な作曲家になっていたのです。ドイツだけでなく各地から応じきれないほどの演奏会の招待を受けていたほどでした。1888年にははじめてイギリスでのコンサートも行い、満員の観客から拍手喝さいの大成功を収めました。イギリスだけでなく、パリでも成功を収めたグリーグ。しかし彼はもっと音楽の幅を広げなければいけないと感じていました。否定的な評論家からも厳しい評価を受けることも経験したグリーグ。人気だけが加速していき、音楽そのものの評価があまりされていないことにも不満を抱いていたのです。
しかしグリーグは49歳のときの結婚25周年のお祝いパーティーのあとに再び体調を崩してしまいました。その年の冬には妻のニーナも病気になってしまい、彼女を失ってしまうかもしれないという思いからグリーグはつぎつぎと曲を書き続けました。
1897年、ノルウェーのベルゲン音楽祭でコンセルトヘボウ管弦楽団というオランダの楽団の素晴らしい演奏を聞き、ノルウェーの唯一の管弦楽団に聞かせるために招待させました。ベルゲン音楽祭も大成功し、ノルウェーの音楽が脚光を浴びるようになり、政府も今までは無関心だった音楽に対して関心をもつようになったのです。
1903年にはオーケストラの指揮をするためにフランスのパリへ行きました。四千人もの聴衆が彼の音楽を聴きにやってきました。そして次はワルシャワ、プラハ、と各地へ演奏をしに訪れ、どこでも熱狂的な歓迎を受けました。しかしその忙しさから体調を崩しがちになります。その後2年間、持病の呼吸器系の病気を抱えながら、それでも各地に演奏旅行に出かけました。
1906年、グリーグはイギリスのオックスフォード大学から名誉学位を贈られ、翌年の春はドイツのコペンハーゲン、ミュンヘン、キール、ベルリンに演奏旅行にでかけました。秋になりイギリスで行われる演奏会に出席するために向かう予定でしたが、船に乗り込む前夜、容態が急変します。すぐに病院に運ばれましたが、昏睡状態に陥ってしまいました。そして1907年の9月4日。グリーグは64歳の生涯に幕を降ろしました。葬儀は盛大に行われ、国外からも5万人もの人々が葬儀の行列を見守りにやってきて、彼の曲をオーケストラで演奏しながら追悼されました。
ノルウェーを愛し、ノルウェーだけでなく様々な国の人々から愛されたグリーグ。彼の音楽は、ノルウェーの風を作品を通して今でもその魅力を伝え続けています。
「伝記 世界の作曲家 グリーグ」ウェンディ・トンプソン 著 新井朋子 訳