エドワード・エルガー

エドワード・エルガーの説明


作曲家であり、指揮者であり、バイオリニストである、エドワード・エルガー。

エドワード・エルガーの生涯


彼はイギリスのイングランドに1857年の6月2日に生まれました。母親は農家の娘で、父親は楽器店を経営しており、ピアノの調律などもしていた、プロ並みの腕を持つバイオリニストでした。エルガーは7人兄妹のうちの4番目でした。この兄弟たちには全員、音楽の教育がされていたといいます。

彼が6歳の時、引っ越しを機にローマ・カトリック教徒として教会に毎週日曜日通っていました。このとき父親はその教会でオルガンを弾いていました。
また、この家族は家庭音楽会を何度も開いたりして、かなりの音楽好きの一家でした。そんな環境で育ったエルガーは父親の楽器店にある楽譜を読み漁ったり、かたっぱしから楽器を演奏して言ったりして、自然に音楽の演奏法を身に着けたといいます。
とはいえ、8歳の頃までにはきちんとピアノとバイオリンのレッスンも受けており、地元の演奏家たちの前で腕前を披露する場を設けられたりもしていました。

エルガーの兄弟は自作の劇を作って自分たちで上演して遊んだりしており、その劇につける音楽をエルガーが担当したりもしたそうです。この劇のために、彼は10歳のときに『ユーモレスク・ブロードヒース』という曲を作っており、これがのちに『子供の魔法の杖』というタイトルで改めて作曲される元の曲になります。

また彼は1866年、ウースター大聖堂という教会で初めて大編成のオーケストラを聞いて、とても感動したそうです。この経験が彼の音楽人生に深くかかわったとも考えられるでしょう。

そして13歳になるころ、彼はセント・ジョージ・ローマ・カトリック教会のオルガン奏者となり、この教会のためにミサやモテットといった教会音楽を作曲しました。

本格的に作曲までしはじめたエルガーですが、彼は学校で音楽を学んでいたわけではありませんでした。彼自身も、音楽の勉強は大聖堂と、音楽図書館から借りた本で学んだくらいだと言っています。図書館ではオルガン演奏の教則本を読み、作曲に使う音楽理論については見つけた本を片っ端から読んでいくというスタイルだったそうです
とはいえ彼も音楽学校に通いたいとは思っており、そのためにドイツ語を勉強もし始めたのですが、彼自身も、彼の両親も留学できるほどのお金を持っていなかったためそれは叶いませんでした。

そのためエルガーは通っていた普通の学校を卒業すると、地元の事務弁護士の元で事務員として働くことになりました。これは彼の性に合わない仕事でした。その反動か、彼はよりいっそう音楽にのめり込んでいき、文学にも没頭していきました。

そして事務員になって数か月後、彼はそこを辞めてしまい、ピアノやバイオリンのレッスンを始めることにしました。またそれだけでなく、父親の楽器店でも働きました。

また、内気な性格気味の彼でしたが、目に障害をもっている子たちが通う学校でバイオリンを教える仕事もしていました。その学校の音楽サークルに所属した彼は、珍しく目立つ存在だったと言われています。

そして彼が29歳の時、キャロライン・アリス・ロバーツという女性を、縁があって弟子にすることにしました。8歳年上の彼女は、弟子になって3年後、エルガーの妻になりました。そして彼女は死ぬまでエルガーの仕事のマネージャーや秘書として彼を支え、そして時には彼が弱気になって良い音楽が作れなくなった時にはアドバイスをしたりもしたそうです。エルガーは彼女のそんな献身的すぎるほどの支えに申し訳なさを感じていましたが、彼女の日記には「天才の面倒を見るというのは、いかなる女性にとっても生涯の仕事として十分なものです」と書かれていたそうです。
そんな彼女に対して、エルガーは特別な曲を捧げました。それがあの今でも有名な『愛の挨拶』です。

『愛の挨拶』は今でこそ特に有名な曲ですが、彼はまだ当時のこの頃はあまり有名ではありませんでした。
有名なホールで彼の作曲した『愛の挨拶』や組曲を演奏されたときには2つの出版社から声がかかり何曲か出版することができましたが、ほかに彼にとって華々しい活躍はまだありませんでした。

しかし彼が30歳を超えた1890年代から、次第に彼の名前が広まっていくようになります。
大きな合唱祭のために作曲した曲が注目を集めたのです。
このとき彼は活動拠点としていたロンドンを離れ、地元に戻ってきていたのですが、この彼の地元では重要人物として認められるほどの地位を得られました。
とはいえ、どうにか食べていけるかどうかといった程度だったので、彼は1898年「音楽のことで非常に心を病んでいる」と言葉を残していました。

しかし1899年、42歳になる彼は大きな成功を手にします。
『エニグマ変奏曲』がロンドンで有名指揮者によって初演されたのです。大好評で終えたこの曲の初演。ドイツとイタリアでも同じく好評におわり、今でもこの曲は彼の代表曲として多くの場所で演奏されています。

彼の名前はヨーロッパの音楽が盛んな地に広まっていき、有名作曲家リヒャルト・シュトラウスに「イングランドで初めての革新的音楽家、マイスター・エルガー」と言葉をかけられるほどになりました。
彼の新しい曲はウィーンやパリ、ニューヨークで公演が続き、イギリス国内でも賞賛されるようになりました。

そして1901年、44歳になる年に今でも有名な曲『威風堂々』が作曲されます。ロンドンでの初演では、演奏後に聴衆は立ち上がり叫び声をあげ、2回ものアンコールを求められるという当時では前代未聞の大成功を収めたのです。
そして彼はイギリスの王様の許可を得て『戴冠式頌歌』という曲を作曲します。この曲のを新しく編曲した『希望と栄光の国』という曲は、イギリスでは第2の国家と呼ばれるほどひろく知れ渡りました。
そして1904年にはイギリスのバッキンガム宮殿でナイトの称号が贈られることになりました。大きな家も贈られ、彼は人気の絶頂にありました。

しかしもともと作曲家は音楽学校に務めるべきではないと考えを思っていたエルガーが、しぶしぶひきうけた音楽学校での授業が論争を巻き起こしてしまいました。批評家にやりかえしをおこなったり、イングランドの音楽に攻撃的な発言をしたのです。
彼はこの論争について後悔をしており、神経質な性格だったのもあり、しばしば体調を崩してしまいました。

そんな彼ですが、1910年に当時の代表的なバイオリニスト、フリッツ・クライスラーという人物から依頼され『バイオリン協奏曲』を作曲しました。この曲も大成功しますが、この曲が大成功を収める曲としては最後の作品になりました。
『フォルスタッフ』など、新しい曲が書かれますが、それらは熱狂的な受け入れもなく終わってしまいます。さらには第1次世界大戦も始まってしまい、彼はその戦争が終わるころには体調をかなり崩してしまっていました。
静かな場所に引っ越しをして、体調を回復することができたエルガーは『バイオリンソナタ ホ短調』や『ピアノ5重奏曲 イ短調』、『弦楽四重奏曲 ホ短調』を作曲しました。しかし同じ時期に書かれた『チェロ協奏曲 ホ短調』は指揮者のマナーの悪さもあり、失敗に終わってしまいました。

1920年、長年エルガーを支えてくれた妻のアリスが亡くなってしまい、一時は創作意欲を失ってしまいますが、徐々に作曲活動を再開していきました。
しかしピアノ協奏曲などの大作を書き始めている時、彼は大腸がんによって亡くなってしまいました。1934年2月23日のことで、彼は76歳でした。

彼の音楽はいまでもイギリスで親しまれ、日本でもたくさん演奏されています。彼の音楽の才能が発揮された曲たちは、これからも世界中の人たちに愛されるでしょう。

『エドワード・エルガー 希望と栄光の国』 水越健一 著 武田書店

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