エリック・アルフレッド・レズリー・サティ

エリック・アルフレッド・レズリー・サティの説明


音楽界の変り者と呼ばれたエリック・サティ。しかし彼の音楽はドビュッシーやラヴェルなどの作曲家に影響を与えもしました。

エリック・アルフレッド・レズリー・サティの生涯


エリック・アルフレッド・レズリー・サティは1866年5月17日にフランスのオンフルールという地に生まれました。父親は海での運送会社に就き、音楽が好きな人でした。母親はロンドン生まれのスコットランド人で、サティ自身も英国教会で洗礼を受けました。
1867年に妹のオルガが生まれ、1869年に弟のコンラッドが生まれ、5人家族となったサティの一家。1870年には父親が運送会社を辞め、パリへ引っ越ししました。

しかしパリで落ち着いて生活ができると思ったサティ達ですが、1872年に母親が亡くなってしまいます。サティは父方の祖父母に預けられ、カトリックとして改めて洗礼をうけ、生まれた地の小学校に通うことになりました。
そしてその2年後、祖父の計らいによってサティを音楽塾に入れます。ここから彼の音楽人生が始まるのですが、悲劇が再び訪れます。祖母が亡くなってしまったのです。サティは父親がいるパリに向うことになりました。

父親と暮らし始めて1年が経ち、父親が再婚することになりました。相手は音楽好きで、有名な音楽家にピアノを教えてもらった経験もある女性でした。その縁もあってか、再婚と同じ年の11月、サティは国立音楽院に入学することになりました。しかし彼は「たいへん居心地が悪く、見かけもかなり殺風景な建物。地方の感化院みたいで、室内も外側も、そのほかでもまったくの無趣味」と言い残しています。感化院とは、今の日本でいう少年院のようなところのことです。
こう言い残しているサティですが、彼自身は平凡な生徒であり、むしろ怠け者でもあったといわれています。

そんな学生生活を送っているサティの初めての作曲作品は入学後5年が経った1884年、ピアノ曲『アレグロ』だと考えられています。
その翌年、同じくピアノ曲の『ワルツ・バレエ』『ファンタジー・ワルツ』が作曲されました。

そして20歳になる1886年、軍隊に編入させられる兵役にいれられますが、作曲は続けられました。『四つのオジーヴ』『三つの歌曲』を作曲しましたが、兵役のことが原因なのか、音楽院を退学することになりました。
翌年、『ワルツ・バレエ』が当時の音楽雑誌『家庭音楽』に載ったことから、父親が楽譜の出版をし始めます。新しく作曲した『シャンソン』と『エレジー』、1年前に作曲した『三つの歌曲』を世に出しました。

同じ年の11月、サティはわざと気管支炎にかかりました。兵役から解放されるためです。
軍隊から解放されたサティは家を出て、モンマントルというフランスで一番高い丘のふもとの街の、小さな部屋で過ごしました。
この頃からフランスでは有名な文芸のキャバレーの「黒猫」という店で、第2ピアニストとして雇われました。この店は有名作曲家ドビュッシーものちに足を運ぶところです。
雇われて数か月して、彼は服装を今までとは変えて、髪も長く伸ばして、街の中心地に移りました。

翌年、1889年。パリで開かれた万国博覧会を訪れたサティは、ルーマニア音楽の合奏に惹かれたり、日本の歌謡を聞いたりしたそうです。
この年は雇われのピアノ弾きとしてキャバレーを渡り歩き、有名な人たちとの付き合いを深めていった年でもあります。このときドビュッシーとも出会い、彼はサティのことを「今世紀に迷い込んだ、優しい中世の音楽家」と表現しています。ドビュッシーとはその後、「釘のはたご屋」という店でオーケストラを指揮した時に長く付き合いがありました。

この時期にサティは薔薇十字団という秘密組織に入っており、その組織の聖歌隊長に選ばれたり、展示会で劇付きの音楽『星たちの息子』を上演したりもしました。この薔薇十字団のためには他にも数曲の作品を作りましたが、この組織には2年間しか在籍しませんでした。教会の偉い人と絶縁するほどに関係が悪くなったのです。サティの音楽はほとんどの人に知られていないのに役職を得ようとしたり、公の場で喧嘩腰の手紙を公開したり、決闘を申し込んだりと、はちゃめちゃな態度をとっていたのです。彼に対して悪意を抱く人も多く、ドビュッシー以外はサティのことを真面目に受け取る人はいなかったほどです。

その後も何人かの人と雨が降る日にさす傘で決闘をしたり、音楽家の職業の後任に立候補するも落選したりを数回繰り返すサティ。破天荒な人生ですが、作曲は続けていました。『冷たい曲』や『びっくり箱』、『夢見る魚』、『梨の形の三つの曲』など、不思議なタイトルとして今でも有名な曲が書かれていきました。

そして1905年。39歳にして音楽を学びなおすためにスコラ・カントルムという学校に入学し、周りを驚かせました。この入学をドビュッシーは止めましたが、サティは聞きませんでした。教師たちもサティになにをどう教えようか分からなかったと言います。それは、サティがたとえ学校教育をうけたところで、得るものはなにもないと確信していたからです。
しかしサティ自身は周りの悪い評判をひねりつぶそうと決心していたのです。彼の音楽をけなしてきた批評界はさらに彼を小馬鹿にしました。
しかしサティはそんな人々を驚かせることになります。3年間猛勉強をし、彼は対位法修了証明書という、つまりは立派に作曲の勉強をし終えましたという証明書を最優秀として手に入れることができました。そして学んだことを作曲に生かした作品を生み出しましたが、これは特に批判されました。ですが、音楽好きの若者たちがサティが過去に作った作品を前衛的だと夢中になったのです。いままでほとんど何も知らない状態で書いた作品が、今頃になって人気になってきたのでした。いままでは父親が楽譜を出版していましたが、別の出版社も楽譜を出版するように求めるようになり、サティ自身も呆気にとられていたといいます。
ちなみに、この改めて通った学校の期間に作った曲は『厚かましさ』『深さ』『犬の前奏曲』『こころよい絶望』『うつろな夢』といった、相変わらず変わったタイトルの物でした。

そして卒業後、1909年は地域の子供たちのために、日曜日にソルフェージュ教室を開きました。ソルフェージュとは、楽譜を読むために必要な基礎的な訓練のことです。
この活動のおかげで地域活動に貢献したとして、教育功労章を贈られたりもしました。
作曲活動も続いており、『馬の装具で』や『新・冷たい曲』といったタイトルの曲を書いています。
このころ、彼のことを頑固なユーモリストという印象が世間から定まったともいえます。ユーモアなタイトル、曲、過去をもつ彼の個性が、ある意味では認められたともいえるでしょう。
その後も相変わらず変わったタイトルの曲をたくさん書き、1915年には芸術家のコクトーと知り合い、その繋がりで画家のピカソとも友人になったりもしました。

徐々に有名になっていくサティですが、1918年にはお金が底をついてしまったり、数年かけて作曲していた『ソクラテス』という曲が大失敗に終わってしまったりと、不運な人生が続きます。それでも前衛的な作曲家として音楽活動を続けていきました。

1945年、『本日休演』というタイトルのバレエ音楽を作り始めます。彼はこの曲によって新時代が開かれると言いました。このバレエは台本もなく、振り付けも踊り手の即興に任されるという前代未聞の作品でした。最初の初演日にはこれが演奏されることなく本当に休演し、1か月後に上演されることになります。その上演は370個の反射鏡が使われ、客はその眩しさに嘆きました。この上演には事前にサングラスを持ってくること、耳に詰める物を持ってくることといわれた意味を、幕が上がってから初めて客は身に染みて理解したのです。
この劇の幕の間には、空からサティと画家のフランシスが降ってきてパリをめがけて大砲を撃つといったストーリー性のない滅茶苦茶な映画が上映されたりと、とんでもないバレエ公演でした。

この公演で決定的に評判を落としたサティ。上演から数か月後、彼は肋膜炎かなにかの病気か判明しないまま病院で息を引き取りました。1925年の7月1日、59歳の人生がそこで幕を降ろしました。

変り者という表現では言い表せないほど、独特の人生を歩んだサティ。たとえ批判されようと音楽を作り続け、そして今でも有名な作品を残した彼の音楽は、やはりどこか人を惹きつける力があるのでしょう。

『エリック・サティ』マルク・ブルテル著 高橋悠治、岩崎力 訳

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