ガブリエル・フォーレ

ガブリエル・フォーレの説明


フランス生まれの、ロマン派の作曲家として有名なガブリエル・フォーレ。

ガブリエル・フォーレの生涯


彼は1845年5月14日、フランスのパミエという場所に生まれました。
父親は教師をしており、とても優しい性格をしていたそうです。そんな性格はフォーレにも引き継がれたといいます。
フォーレには姉が一人と兄が4人いましたが、フォーレ自身は近くの村に里子に出され、そこで4年間を過ごしました。

そんな彼が4歳の時、村の教会のハーモニウムの演奏を聞きます。ハーモニウムとは、オルガンのような鍵盤楽器のことです。その楽器を演奏していた目の見えない老人は、熱心に演奏を聞くフォーレに音楽を学ぶことを薦めました。

お金があまりない家庭でしたが、どうにかフォーレは9歳の頃、パリの学校に入学し、そこで音楽の勉強をできるようになりました。彼はここで11年間、音楽を学ぶために学生で居続けました。
ここでの勉強のおかげで、彼の音楽の土台の良さが培われたと考えられています。

フォーレはこの学校へ入学してすぐ、作曲をしていたといわれています。今でも演奏される『蝶と花』という歌の曲を書いたのは15歳の時でした。
彼が15歳の頃はちょうど、有名作曲家のサンサーンスが彼の通っている学校の先生にもなった年で、フォーレは10歳年上だったサンサーンスにピアノを教わりました。彼らの関係は友人のような関係になるほど、仲が良かったそうです。

そして20歳になる1865年、彼は11年間居続けた学校を、一等賞を貰って卒業しました。
そして翌年にはレンヌという場所にある教会のオルガン奏者に就くことができました。小さな町だったそこは、彼を歓迎して受け入れてくれて、開かれる演奏会でフォーレの曲を取り上げてくれたりもしました。

4年後、教会のオルガン奏者を辞めて、パリに帰ったフォーレ。パリのノートルダム寺大聖堂のオルガン奏者になることができました。また、このとき起こったフランスとプロイセンが戦う普仏戦争の軽歩兵として戦争に参加もしました。
その戦争が終わった後、彼はスイスに一時的に逃げ込み、サントレノデリロ教会のオルガン奏者になり、つづいてサンシュルピス教会で有名オルガン奏者のヴィドールという人物のアシスタントを経験します。その後、マドレーヌ教会で学生時代に世話になっていたサンサーンスの代理としてオルガンを弾きました。

1年間の間でたくさんの教会のオルガン奏者を経験したフォーレ。
翌年には彼が11年間在籍していた学校で先生として働くことになりました。

そんな彼は、演奏会で彼の曲を歌ってくれた歌手との関わりの中で、彼はマリアンヌという女性と仲が深まり、結婚の約束をしました。しかし彼女がなんの理由もわからないままに婚約を帳消しにしてしまい、フォーレから逃げてしまったのです。フォーレは大きなショックを受け、心にも大きな傷を受けました。

彼女との関係があった間、フォーレはマドレーヌ教会の合唱長の地位を獲得したり、師匠のサンサーンスに連れられて有名なピアニストのフランツ・リストを訪ねたりして、音楽家としての経験をさらに積んでいました。

そして突然の婚約破棄から6年後、彫刻家として芸術を生みだしていたフルミエという人物の娘であるマリーという女性と再び結婚をしました。フルミエはサンサーンスの友人で、フォーレの心根の良さと、困難な人生を鑑みて支えてくれた人でした。そのこともあり、フォーレが気を寄せていた自分の娘をお嫁さんとして嫁がせたのです。相思相愛の二人は幸福な生活を送り続けたといわれています。
またこの結婚の年はフォーレの創作も盛んで、『舟歌』の第1番や、『即興曲』『マズルカ』『夜想曲』など、今でも有名な曲が次々と作曲されていきました。
幸せな家庭を持ち、作曲も次々とこなしていったフォーレですが、彼の日常はとても忙しく、教会に演奏の仕事をしにいったり、レッスンをしたりと、1日に3時間は鉄道にのって色々な場所に移動する生活だったそうです。

フォーレが40歳になる年、彼の父親が亡くなってしまいました。フォーレは父親との思い出のために『レクイエム』の作曲をはじめ、亡くなった2年後に教会で初演をしました。

その後、彼は歌がメインの歌曲を何曲も作り、1893年は今でも彼の代表曲であるピアノ組曲『ドリー』を作曲し始めました。また、イギリスでの演奏会のために海を渡ったりもしました。

そんな彼ですが、1903年、耳が聞こえにくくなっていることに気が付きました。
耳が聞こえない作曲家に、ベートーヴェンという偉大な音楽家がいます。フォーレ自身ももちろんベートーヴェンのことを知っていたはずです。なので作曲することを辞めはしませんでしたが、フォーレがもってしまった耳の聞こえなさというのは、単に音が聞こえないというわけではありませんでした。中音域ははっきりと聞こえないという症状でしたが、低音域と高音域が、本来の音とまったく違った音に聞こえてしまっていたのです。音程で3度以上ズレていたといわれており、たとえばドレミのなかのミの音がソの音に聞こえているようなものだったそうです。
そのため彼は演奏を聞いてもまったく美しいものには聞こえず、人と会話するのも苦労するという状況になってしまったのです。

しかしその後も彼は音楽活動を続けていきました。1905年はパリ音楽学院という一流の音楽学校の院長になり、その翌年は『舟歌』の第8番や『夜想曲』の第9番や『セレナード』を作曲しました。
耳の聞こえがより一層悪くなった1910年にも『舟歌』の9番、『即興曲第5番』や、歌曲集の『イブの歌』を完成させたりもしました。
その翌年には『前奏曲集』の全9曲を完成させ、1913年には『ペネロープ』という歌の劇が完成されます。

作曲は続けられた彼ですが、作風は変わってきました。これまでの流れるような、キラキラと輝く曲調から、単純化された、もはや華やかさはなくなった曲調になりました。

彼が75歳になる1920年にはほとんどなにも聞こえない状態になり、それに伴ってパリ音楽院の院長も辞めることを決めました。
音楽院で働くことは辞めてしまいましたが、作曲活動はまだ続きます。今でも有名な、彼の代表作ともいえる組曲『マスクとベルガマスク』を作曲しました。

その後、最後の演奏会に出演したフォーレですが、もはやその音楽は耳に入りませんでした。
苦痛の精神状態の中でも、彼は長年作曲を続けていた『舟歌』の新作を書き、『ピアノ5重奏曲』第2番を作曲しました。この『ピアノ5重奏曲』は初演で観客はスタンディングオベーションをし、、批評家からも高い評価を受けた作品でした。

彼はまだ作曲を続けました。77歳の頃には『チェロソナタ第2番』歌曲集『幻想の水平線』を書き上げ、どれも大好評でした。

そして1724年、『弦楽四重奏曲』を完成させますが、その後パリに帰った後、11月4日に彼は家族に見守られながら息を引き取りました。

彼の音楽は、彼の心根の優しさを表したような曲が多いです。たとえ耳が聞こえなくなっても、たくさんの素晴らしい曲を作り、そしてそれの多くは大切な人に捧げられました。
そんな彼の人間性が現れた曲は、これからも人々を魅了していくでしょう。

「ガブリエル・フォーレ 人と作品」E.ヴュイエルモーズ著 家里和夫 訳

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