クロード・アシル・ドビュッシーの説明
クロード・アシル・ドビュッシーという作曲家は、まるで空気感を描いたような雰囲気を持つ「印象主義音楽」という音楽ジャンルを作り上げた人物です。
クロード・アシル・ドビュッシーの生涯
クロード・アシル・ドビュッシーは1862年8月22日、パリ近くの町サン・ジェルマン・アン・レイという場所で生まれました。父親が陶器店を営む家庭で、ドビュッシーは長男として生まれます。妹1人と、弟3人が生まれますが、一番下の弟は早くに亡くなってしまいました。
陶器の商売が失敗してしまいパリに移り住むと、今度は市民と国による対立の抗争に巻き込まれ、父親は逮捕されてしまいました。働き手を失ったドビュッシー一家。長男のドビュッシーは小学校にも通えず、内向的な性格に拍車が買っていきました。このころの思い出は彼が年をとっても語ろうとしませんでした。
そんなドビュッシーを音楽の世界へ導いたのは、叔母のクレマンティーヌでした。彼女はドビュッシーをピアノ教師のもとに連れて行き、レッスンを受けさせたのです。その後ピアノ教師を変え、彼は本格的にピアノのレッスンを受けることにしました。彼はずば抜けた才能を発揮し、それを認めたピアノ教師はレッスン料もとらずに熱心にピアノを教えました。そして1年後、10歳にしてパリ音楽院という有名な学校に入学することができました。最年少での入学にくわえ、国家奨学生にまで選ばれるほどでした。
パリ音楽院在学中のドビュッシーはたくさんの賞をもらいましたが、彼自身はガリ勉型の生徒だったわけではありません。当時の彼を知る人たちが残した言葉は「ドビュッシーは内気で不愛想で、とっつきにくい生徒だった。しかしピアノを前にするとそれはがらりと一変して、鍵盤に襲いかからんばかりの勢いで叩いた。息を切らし、乱暴にも見える熱っぽい弾き方をするのが特徴だった」と。
そんな彼ですが、「音楽に人一倍興味と愛情を持っているが、ピアノにはあまり関心がない」とも言われていました。
また彼は反抗期のときの態度も酷く、何度も退学させられそうになったといいます。
しかしそんな彼ですが、自分を家族同然にあつかってくれる人には心を開き、深い親愛を持ってもいました。
その後、声楽教室の伴奏を弾くアルバイトをしたり、恋をしたりしましたが、作曲の賞をとることに力を注ぎます。その賞とは、フランス芸術院によるもので、一年に一度の「ローマ賞コンクール」です。一度目は賞はえられず、2度目は惜しくも2位、しかし1884年念願の1位に輝きます。彼は実際に受賞してみると喜びより戸惑いが大きかったと言います。
そしてそのコンクールの賞品である「メディチ荘」というイタリアのローマに建つ寄宿舎での留学生活が始まります。しかしその場所は彼には合わず、同じ音楽院の友人たちとの気も合いませんでした。彼はそんな友人たちに失望し、むしろ絵画の勉強をする学生たちと交流を楽しみました。この絵画への熱中はのちに彼の音楽にも大きな影響を与えるのです。
そんな留学生活も2年経ち、彼は管弦楽曲『春』を完成させてパリに戻ります。この曲は画家ボッティチェリの絵画から曲想を得た作品で、フルート、オーボエ、ハープによる冒頭部分の演奏は新しい音楽様式が取り入れられた作品です。このころから、彼の音楽には「印象主義」という言葉が使われるようにもなりました。
パリに戻ったドビュッシーは、富裕層や知識階級、芸術家たちのたまり場であるカフェによく行くようになります。少年時代から引っ込み思案なドビュッシーでしたが、芸術家たちとの交流は盛んでした。またこの交流があったからこそ、彼の音楽が生まれたともいえます。
そして28歳のとき作曲した『ベルガマスク組曲』。この曲は『月の光』といった有名な曲が含まれるピアノ曲で、これはフランスの詩人ベルレーヌの詩が反映されています。またこの曲からは彼がイタリア喜劇や道化に深い関心があったことがわかる作品でもあります。
このころパリでは万国博覧会がひらかれ、ドビュッシーもその博覧会に足を運びました。そこで目にした世界各国の芸術、民族音楽、民俗芸能に感動し、なかでもインドネシアの「ガムラン音楽」という音楽ジャンルに魅力を感じ、その後の彼の音楽にもこの感動が織り込まれます。
その織り込まれた作品が『弦楽四重奏曲』です。ある批評家はこれを「東洋風のエキゾチックな香りを放つ、美しい音楽だ」と感想を口にしました。しかしこの曲はとても難しく、演奏者から演奏することを断られてしますこともしばしばあったそうです。
芸術家との交流をし、それを音楽に取り入れるドビュッシーでしたが、彼は同時代の作曲家をあまり高く評価しませんでした。むしろおおっぴらに批判したほどで、文芸雑誌に辛口の音楽批評を載せたりもしていました。
そんな彼ですが、1903年、41歳のころピアノ曲集『版画』を完成させます。『塔』『グラナダの夕べ』『雨の庭』の3曲からなり、『グラナダの夕べ』にはスペインの情熱の音楽を感じられるような、色彩豊かな作品になりました。
こうした作曲家としての華々しい業績を認められて、彼はフランス政府から「レジオンドヌール五等勲章」を貰えることになりました。彼はこのとき両親のためにも喜びました。貧しいなか音楽を学ばせてもらい、パリ音楽院時代には迷惑もかけてしまいましたが、この名誉な勲章によって親孝行できた気持ちにもなったそうです。
勲章によって彼の評価は確かなものになりましたが、収入は恵まれず、ヨーロッパ各国を演奏旅行しに行かなければならなくなりました。無理がたたって体調も悪くなりましたが、出版社が手を貸してくれたおかげで少しは収入が増えることになったのです。
そして1905年、43歳になるドビュッシーはイギリスへ旅行中。管弦楽曲『海』に最後の手をくわえます。ドビュッシーは小さい頃から海に強い愛着の心を持っていて、浜辺にたたずんでじっと海を眺めていることも多かったのです。彼はこう語ったことがあります。「あらしの海に囲まれていると、自分が生きているってことを実感するよ」
この『海』は屈指の傑作となり、作者の海に対する強い感覚がそのまま楽譜に注がれ、ときには強く、ときには弱く、洗練された流れを奏でる楽譜になりました。
『海』の作曲以降、創作意欲をもやすドビュッシーでしたが、彼の体は病気にむしばまれつつありました。1909年には彼の亡くなる原因である直腸ガンの兆候が自覚され始めます。彼はまだ47歳という年でした。
創作活動は続けましたが、1914年には第1次世界大戦も始まってしまい、彼はどんどん憂鬱な気持ちになっていきます。世界大戦が始まってからも作曲に励もうとしたドビュッシーは、フランス国民として貢献するために、フランス兵士を鼓舞し英雄をたたえる曲を書きます。『フランスへの頌歌』という曲がその時作られたものです。ですがドビュッシーは次々と亡くなっていく兵士に心を痛め、『白と黒で』という戦死した兵士に捧げる曲も書きました。
しかし1915年、彼の病状は悪化していき、手術を受けることになります。手術後まもなくして再び作曲に取り掛かりますが、2回目の手術もしなければならないほど悪化していました。ドビュッシーは「生きる屍のような気分だ」と友人に力なく語ったそうです。
1917年、いくらか回復し、自作のバイオリンソナタを演奏する友人についていき、演奏会場にも足を運びましたが、病状はふたたび悪化し始めます。そして1917年の終わりにはベッドから出ることもできなくなっていました。ピアニストの友人は彼に静かに『練習曲』を弾いて聞かせたりもしました。
そして1918年3月25日、ドビュッシーは56歳で亡くなりました。
彼の音楽はまさに絵画や詩といった芸術の融合作品であり、「印象主義」という新しい音楽ジャンルを築く功績も成しえました。彼の作った雰囲気溢れる美しい音楽はいまでも演奏会などでたくさん弾かれ、その美しさを響かせています。