シャルル・カミーユ・サン=サーンス

シャルル・カミーユ・サン=サーンスの説明


幼いころから神童と呼ばれたサンサーンス。作曲家でありピアニストでありオルガニストである彼は、実は悲しい過去を持っていました。

シャルル・カミーユ・サン=サーンスの生涯


シャルル・カミーユ・サン=サーンスは1835年10月9日にフランスのパリに生まれました。父親は内務省に勤め、母親は元は孤児でしたが書店を経営する夫婦に引き取られた人でした。サンサーンスが生まれる少し前、父親の兄と親戚が亡くなったりと不幸が続いてしまい、さらには彼が生まれる2ヶ月前に父親までもが結核という病気で亡くなってしまいます。そしてサンサーンスは母親と親戚の叔母に育てられることになったのです。

サンサーンスが音楽のレッスンを受けたのは2歳半の頃からでした。叔母に楽譜の読み方を教わり、絶対音感が持てるように訓練もしました。彼の上達はとても早く、3歳で作曲をしたとも言われています。
7歳の頃にはプロのピアニストの元でレッスンを受け、音楽理論の勉強もそれと共に受け始めました。
しかし彼はこうした音楽の勉強を母親と叔母から受けさせられていたため、同い年の子供たちと遊ぶ時間はあまりなかったそうです。音楽を教えてくれる大人の人たちと触れ合うことの方が多かったため、子供らしさはあまりなかったといわれています。また体も弱かったことから、自分も父親のように結核にかかってしまうのではないかとずっと怯えていたようです。

そんなサンサーンスですが、彼は図書館で様々な勉強をしたりと熱心に知識を蓄えていきました。彼は記憶力もすさまじく、読んだものや聞いたことは忘れずにいつまでも覚えていたそうです。
自分ならきっと受かると思い、17歳のサンサーンスは2年間のイタリア留学の奨学金をもらえるローマ大賞という栄誉ある賞に応募しますが、残念ながら落選してしまいました。
しかし彼が作曲した『聖セシリア賛歌』という曲で別のコンクールで受賞することができました。
この受賞のおかげで作曲したものを上演する機会が増え、ついに交響曲を上演することができるようになりました。初めて作った交響曲『第1番変ホ長調』の初演では有名な作曲家グノーから手紙を受け取りました。内容は、サンサーンスの才能を褒め称えるものでした。

この交響曲『第1番変ホ長調』は大成功しますが、その後彼の活躍は静かに進んでいきました。
とはいえ彼は18歳の頃にはサン=メリ教会でオルガン奏者をつとめ、その4年後には指揮者としてもデビューしました。
数か月後、オルガン奏者として教会音楽の演奏会を開き大成功を収めました。そのとき作曲した『ミサ曲』を教会の司祭様に捧げ、そのお礼として数日間のイタリア旅行に招かれました。この旅行のおかげで彼は当時フランスのオルガン奏者として最高峰とされていた聖マドレーヌ教会でオルガン奏者になることができました。

そうしたなかでも作曲は続けていました。また、その作曲活動のうち19歳と25歳の時には恋愛が原因で作品に影響も与えたたといわれています。ですがこうした例は珍しく、彼は基本的には生活や心の状態に影響を受けずに作曲したと考えられています。

そんな彼ですが、新しい作品を書くたびに「現代作曲家」といわれていました。パリでは批判を受けることもあったくらいです。

そんな彼ですがセーヌ国民軍の兵士として35歳になる1870年から約一年間戦争に参加したりもしていました。
この戦争の出来事を音楽的に反映されたのは『戦争の歌』という合唱と管弦楽器で演奏される曲です。
戦争の影響は作曲だけでなく演奏の場にも関わってきました。「国民音楽協会」というフランスの音楽だけを演奏する場を作る協会ができたのですが、戦争のせいでまったく演奏会を開催することができなかったのです。
またこの戦争はフランス国内での戦いだったため、国民の見方として兵士になっていたサンサーンスはパリから逃げなくてはならなくなったりもしました。

しばらくしてその戦いも収まり、彼はパリに戻り演奏会に参加しますが、彼の作品は観客から激しく拒否されてしまいました。「旋律が欠けている」「着想がない」「なんの感情もない」とまで言われてしまうほどでした。彼はその言葉に対して45分間も対抗の言葉を投げかけたといわれています。

彼への不幸はさらに続いてしまいます。彼にピアノを始めて教えてくれた叔母が亡くなってしまったのです。
サンサーンスはこの度重なる苦しみに耐えられなくなっていき、体調を崩してしまいます。
しかし医者のすすめで北アフリカで二か月間ゆっくり過ごすと、彼はその土地がとても合っておりみるみる元気になっていきました。北アフリカでは彼を批判する声も、体を苦しめる寒さもなかったからです。
体調が戻り、再び作曲した『ファエトン』という交響詩を発表しました。しかしこれもまた観客からは拒否されてしまいました。

また同じころ、もうひとつ出来事が起きました。40歳になるサンサーンスが19歳の女性と結婚式を挙げたのです。彼女とは生徒と先生の関係で、サンサーンスはずっと母親と過ごしていたことによるマザーコンプレックスのような状態だったのでこの結婚式は周りにとても驚かれました。しかしこの結婚はとてもひっそり行われ、なぜサンサーンスは彼女に惹かれたのかなどもよく分かっていません。
ですが悲しいことはさらに続いてしまい、初めて生まれた息子のアンドレは2歳の時に家の窓から転落して亡くなってしまい、2人目の息子も生まれて七か月目にして肺炎で亡くなってしまったのです。
その3年後、彼は妻と一緒に行った温泉地のホテルからひっそりと逃げ出し、事実上の離婚をしました。

しかしこれらの出来事も、彼の音楽にはほとんど影響しませんでした。作品は次々と生まれ、そして次々と失敗しました。今でこそサンサーンスの音楽はとても評価されていますが、当時はまったくそうではなかったのです。

ですが、次第に彼の音楽も認められるようになっていきました。1881年、彼が46歳になる年に発表されたオペラ『エティエンヌ・マルセル』で大成功したのです。その後、作曲家として、ピアニストとして外国に演奏旅行を頻繁に行い、そこでも大成功に収めることができました。
オペラ『ヘンリー八世』の初演ではへとへとになるまでリハーサルをして準備をし、このオペラでも大成功しました。サンサーンスの友人であり有名音楽家のグノーは「私が出会った音楽の中でもっとも驚くべき作品のひとつだ」といったほどでした。
しかし疲れがたまっていたのか、このオペラの初演の翌日に医者に休息をとるように言われます。そして彼は数か月間、重い肺炎と肺の周りが炎症になる胸膜炎によって活動を休止しなければならなくなってしまったのです。

その病気も収まり、再び音楽活動が再開された時期、今でも有名な『動物の謝肉祭』が書かれました。オーストリアで短期間の休息をしている時に書かれたのです。しかしこの曲は二回の連続演奏会後にこの作品の演奏と出版を彼自身が禁じた曲でもあります。彼が亡くなってその禁止が解かれて、より一層この曲は有名になりました。

しかし1906年、再び彼に病気が襲います。何日ものあいだ生死をさまよいましたが、彼はまたしても回復することができました。そしてアメリカでの演奏会も無事に行うことができたのです。
病気は何度も直すことができましたが、彼の孤独と人を怖がるような、冷たい態度や性格は直ることはありませんでした。

その後彼はフランスとドイツの音楽についての論争を繰り広げたり、85歳の誕生日を演奏旅行をしながら祝ったり、作曲に改めて力を入れるようになっていきました。しかし彼は引退の宣言をしており、80歳を過ぎたら音楽人生に一区切りをつけるとしていました。そして1921年の演奏会を最後に舞台にお別れをします。
ほぼ毎年ように冬の寒さをしのぐために訪れていた北アフリカに、いつものようにでかけていきましたが、彼はもう病気に抗う力が衰えており、1921年12月16日に彼は86歳で亡くなりました。
その後、彼がオルガン奏者としても活躍していたマドレーヌ教会で、国に貢献した作曲家として国家が葬式を執り行いました。

彼は生きている間はなかなか認めてもらえない作曲家でしたが、今では彼の音楽はとても有名で、誰もが聞いたことのあるくらいに知られている存在です。
彼が亡くなったとはいえ、彼の音楽はいつまでも鳴り響いていくでしょう。

『サンサーンス』ミヒャエル・シテーゲマン著 西原稔 訳

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