ジャン=フィリップ・ラモー

ジャン=フィリップ・ラモーの説明


バロック音楽の作曲家であり、音楽理論家として有名な、ジャン=フィリップ・ラモー。

ジャン=フィリップ・ラモーの生涯


彼はフランスのディジョンという地に1683年9月25日に生まれました。ちなみに、彼が生まれた2年後に、あの偉大な作曲家、ヨハン・セバスティアン・バッハと、ヘンデルも生まれました。
彼の父親はディジョン大聖堂という教会のオルガン奏者で、ラモー自身も小さい頃からチェンバロに親しんでいたのではと考えられています。
ですが彼はもともと音楽よりも法律を学んでいました。そのため、音楽の研究は趣味として情熱を注いでいましたが、音楽家になりたいという夢を抱くようになりました。
そして父親はそんな彼を音楽の盛んなイタリアに送り、ミラノに数か月のあいだ居させることにしました。そしてイタリアからフランスに戻り18歳の頃、父親の跡を継いで大聖堂のオルガン奏者につくことになりました。
またその6年後には『クラブサン曲集第1巻』を出版しました。クラブサンとはチェンバロのフランス語での言い方です。いま私たちが弾いているピアノの基になった鍵盤楽器がチェンバロという楽器です。
その後も彼はフランスのパリやディジョン、リヨンなどでもオルガン奏者として活躍していきます。

そして1715年、彼が32歳になる年に、『自然原理に還元された和声論』という本を出版しました。和声論とは、作曲する時などに使う、音の綺麗な並べ方についての方法論のことです。彼が生まれた時代は、今のように感情に直接訴えるような和音はほとんどなく、数学的な考え方のない作曲方法で書かれた音楽が多かったのです。
彼はこの本で、「音楽は音の科学である」ということをテーマにして、全4巻で解説しています。
この本はとても評判になり、新しく『クラブサン曲集と運指法』や『新クラブサン組曲集』といった楽譜を出版することもできました。

そして彼はさらにアレクシス・ピロンという劇作家に音楽をつけてくれないかと頼まれたのです。ここから彼の舞台音楽の作曲家としての人生が花開くことになりますが、このころの楽譜は現在ではなくなってしまっています。

1726年、42歳の彼は19歳のマリールイーズマンゴイットと結婚しました。彼女はフランスの音楽家の出身で、人気の歌手であり楽器奏者でもありました。彼女との間には男の子2人、女の子2人が生まれ、とても幸せな家庭生活を送れたといわれています。

1732年に別の教会のオルガン奏者になり、1736年にはイエズス会が経営する学校のオルガン奏者として仕事に就きます。
家庭も円満で、出版した本も評判でしたが、演奏家や作曲家として名前が知れ渡るのは50歳になってからでした。

彼が活躍をするようになる劇音楽作曲家としての活動の転機は、1731年に起きました。裕福な音楽愛好家の持っている楽団の音楽監督になったことがきっかけになったのです。その愛好家の一家における音楽のすべてを任されたラモーは、オペラの作曲に取り組むことになったのです。そして1733年、『イポリートとアリシー』というオペラを作曲し初演することができました。このとき彼はすでに50歳でした。しかし彼は年齢に捕らわれず、次々とオペラを書き上演してきます。
またそれだけでなく、合唱などをつかったり、管楽器や弦楽器の新しい使い方を音楽に取り込んだりと、様々な曲を生み出していきました。『優雅なインドの国々』や『カストールとポリュックス』などを上演していき、オペラ作曲家として彼の名前を広めていきました。これらの曲は今でもラモーの代表作として有名な作品になっています。

そしてついに1745年にはフランス国王であるルイ15世のもとで宮廷作曲家として任命されました。この任命によって、彼のフランス音楽の作曲家としての地位が固められることになったのです。

その後も彼はオペラを多く書き、『プラデー』や『ピグマリオン』など今でも彼の代表作とされている作品を次々と生み出していきました。

こうしてフランスのオペラを書いていくラモーですが。1752年からフランスとイタリアの音楽の優劣争いが2年にわたって起こりました。この争いのきっかけは、イタリア人作曲家の上演したオペラが原因でした。いままでオペラは貴族のために作られた贅沢な芸術作品でしたが、このイタリア人作曲家が作ったオペラはそれとはまったく反対の雰囲気のものだったのです。学問を学んだ貴族たちよりも、労働などが生活のメインの市民に寄り添った内容だったそのオペラは、これまでのオペラでは主要のテーマだった神話や宗教的なものとは関係ないストーリーと音楽でした。
イタリアではそうした身近で市民的なオペラが流行っていき、しかしフランスではこれまでどおり神話や宗教をテーマにしたオペラで対抗していました。そのフランスのオペラというのはラモーが作曲家として代表的になっていたため、実質ラモーがフランスのオペラ音楽を背負っていたことにもなります。
そしてこのイタリアとフランスの音楽対決は、イタリアが勝つことになりました。新しい音楽が、多くの聴衆たちに大歓迎されたのです。

フランスも次第にそうした民衆寄りのオペラを作っていくようにはなりましたが、ラモー自身はすでにお金も多く貰っていたこともあり作曲活動よりも音楽理論の本を再び出版するために力を注いでいました。
そうしてオペラ対決以降、彼が亡くなるまでの13年間の間に23冊もの理論書を発表しました。
そしてその理論書を書いている間、彼はもともとは貴族ではなかったのですが彼が残した功績から、貴族としての身分も与えられました。
しかし1764年9月12日、最後のオペラ作品である『アバリス、または最後の北風の神々』の練習中、熱を出してしまい、そのまま亡くなってしまいました。亡くなったその日は、彼の誕生日のたった13日前のことでした。

そうして80歳でこの世を去った彼ですが、彼が残した楽譜や、とくに音楽理論の本はとても重要なものであり、彼のあとに活躍する作曲家たちの重要な教材になりました。
音楽自体も今でもとても有名で、音楽を勉強している人であればだれでも一度は耳にしたことがあるでしょう。
50歳以降に活躍が広がるという、遅咲きの音楽家でしたが、彼の音楽家としての役割はとても大きかったと考えられます。

参照

https://ja.melayukini.net/wiki/jean-philippe_rameau#cite_note-4
http://pietro.music.coocan.jp/storia/rameu_vita.html
Wikipedia

タイトルとURLをコピーしました