ジョン・ケージ

ジョン・ケージの説明


『4分33秒』など、新しい音楽を生み出したジョン・ケージ。

ジョン・ケージの生涯


彼はアメリカのロサンゼルスに1912年9月5日に生まれました。父親は発明家で、母親は親戚に音楽家がいる家庭でした。
親の仕事の関係で、ケージは生まれてから4回ほど引っ越しをしていました。彼が9歳になるとき、サンタモニカという地域の学校に通っている時期に、叔母のフィービーと、作曲家のファニー・チャールズ・ディロンというふたりの女性にピアノを習いはじめました。

16歳の彼は、ロサンゼルス・ハイスクールを、学校が始まって以来最高の成績で卒業を果たします。その後、カリフォルニアの学校に進学しますが、彼は勉強をしないでもテストでいい点数を取れたり、かと思えば取れなかったりと、勉強と成績の関連があまりないことに気づき、学問への興味を失ってしまいました。
そんな彼ですが、この頃文学の道に進むことも考えていました。そしてこの夢を持ち始めると同時に彼も自分で詩を書き始めるようになりました。

その後、建築について勉強をしようとも思い立ち、有名な建築家の元で学び始めますが、建築家になるには自分の人生全てを捧げなければいけないと、その言葉を聞いてケージは建築家になる夢を諦めました。
その後、ピアノのレッスンを続け、彼は18歳で初めて、あの有名な作曲家バッハを知ります。そして同じく有名な作曲家、スクリャービンやヒンデミット、ストラヴィンスキーなど、新しい音楽を作り出した作曲家の音楽を聴き、彼もそれに関心を持ち始めました。
彼はこの18歳の時は色々な国へ旅をしながら、絵を描いたり詩を書いたりして過ごしました。また、初めて作曲に取り組んでみたりもした年でもあります。

その後、彼は作曲の勉強をし、21歳の頃に『クラリネットのためのソナタ』や『6つの短いインヴェンション』など、現在残っているなかで一番古い曲が作られました。

そして彼はシェーンベルクという有名作曲家の元で作曲の方法を学ぶことができるようになりますが、ケージがレッスン代を払うことができないと告げました。しかしシェーンベルクは人生を音楽に捧げるという条件でケージを弟子にすると言ってくれたのです。
そうして彼はシェーンベルクの弟子となり、音楽の勉強を続けていきました。

25歳のとき、彼はガラクタのようになってしまったものを含めた打楽器を集め、打楽器オーケストラを作り、演奏旅行に出かけました。
またこの年は電気をつかう楽器や、騒音を利用して作曲をすることを主張し始めた年でもあります。
27歳の時には、ブリキ板や自動車のブレーキなどを含む打楽器の6重奏『第1コンストラクション』という音楽を作曲しました。また、最初の電子音楽作品である『心象風景第1番』も作曲しました。

その後も彼のまるで実験のような作曲は続きます。グランドピアノの弦に、ゴムや木片、ボルトなどを挟み、まるで打楽器のように変化させたプリペアド・ピアノと呼ばれるものを考えたり、家の居間にあるものを叩いて演奏する『居間の音楽』や、現実世界の街の騒音を再現した効果音を鳴らす『街はソフト帽をかぶっている』という250ページにも及ぶ楽譜の曲を作ったりしました。
また、ピアノの蓋を閉じたまま演奏をする『18回目の春を迎えた陽気な未亡人』という曲も作りました。

そうした活動をしていき、1943年にニューヨーク近代美術館でコンサートが開催され、これまでに作曲した、今までの音楽を覆すような作品を披露しました。
この演奏会を機に、彼はアメリカの代表的な実験音楽家であり、前衛的な活動をしている存在として広く知られることになりました。

そんな彼ですが、33歳の頃、音楽によるコミュニケーションの可能性に疑問を抱き始めます。そしてこの時を境に、彼は個人的な感情の表現として音楽を書くことを離れることを決心しました。
また同じ年に彼は鈴木大拙という日本人に、心の統一をするときに行う禅を学び、2年間それを続けました。この禅というものに触れ、彼は東洋の思想への関心も高まったといいます。

新しい音楽を次々と生み出し、有名になっていくケージですが、ベートーヴェンの音楽を批判したことによってスキャンダルを起こしたりもしました。

しかし彼の活躍はますます高まっていき、アメリカのカーネギーホールでプリペアド・ピアノの作品を演奏をし、音楽芸術の限界をこえたという功績で文芸協会から千ドルもの賞金を受け取ることができました。

その後も、これまでの楽譜の書き方とは全く違う楽譜を考え出したり、占いにつかう方法を織り交ぜた作曲方法を考え出したりしました。
また『心象風景第4番』では12台のラジオを、24人の演奏者が操作するという音楽も作りました。これは初演が深夜に行われたため、ラジオ番組がほとんど終了しており、とても静かな演奏となったそうです。
このようなラジオを使う以外にも、演奏者がそれぞれ自由に選んだレコード42枚をつかって演奏をするということも考え出されました。

39歳の彼はハーバード大学で無音室を体験しました。彼は無響室に入り、体内の音を聴き、沈黙をつくろうとしてもできないことに気づき、自分が死ぬまで音は鳴り、死後も鳴りつづけるのだと考えました。この無音室での体験は作風に大きな影響を与えました。

そして40歳の時、ラウシェンバーグという画家と知り合い、彼の描いた『真っ白な絵』と、『真っ黒の絵』にも影響を受けます。そして45分間、その影響を受けた画家を含む7人の人間によって、それぞれ関連のない動きをしてもらう、ハプニングというパフォーマンスを思いつきます。
そしてそのすぐ後に、あの有名な『4分33秒』が考え出されました。
演奏者には「休み」という指示だけが与えられ、何かの音を弾くことの指示は楽譜には書いていないのです。その空間に聞こえてくる音を聞くことを、この楽譜は作品としていました。そしてこの作品の初演は、雨と風の音、風に揺れる木の音、客席の人々のどよめきが聞こえていたそうです。

そんな前衛的な音楽を生み出していく彼ですが、作曲家としてだけでなく、キノコの研究家としても彼は知識を披露していました。テレビのクイズ番組に、キノコ研究家として出演し、数週間にわたってキノコなどの菌類の学問の質問に答えたのです。

1962年、彼が50歳になる年、『4分33秒』の第2番として『0分00秒』を作りました。
日本の東京で行われた初演では、自身の眼鏡や万年筆、また灰皿などにコンタクトピックアップを装着し、タバコを吸ったり水を飲んだりしながら、この作品の楽譜を書きました。このときに鳴った微かな音が、電気的に増幅され、大音響となって会場を満たしたそうです。
この作品のタイトルの下には「独奏として誰が何をしてもよい」と書かれています。しかしこれは演奏者が「ある習熟した行為」を行うことであり、例えば字を書く、歯を磨く、タバコを吸う、などの日常的な行為のことをさしているのです。
またこの作品を2回目に演奏するには、すでに行ったことのある行為を再び行ってはならないという決まりがつけられています。さらに、音楽的だったり演劇的な身振りもしてはならず、観客に電子的な状況を注目させるような小細工もしてはならないとされているのです。

このような作品を次々と書いていくケージですが、しだいに悪い評価も増えていってしまいました。
不安になった彼は、作曲の方法にも使っている占いで、今後どうするかを占いました。結果は、このままの方向で進み、「喜びと革命を広めよ」という答えでした。

そしてその後も彼は、チェスのゲームをするときに生じる音を使った作品や、植物を順番に触れた出た音を使った作品、循環呼吸をつかって貝殻を吹き続けるパフォーマンス作品など、様々な作品を生み出していきました。

また1989年に、彼は日本でも多く活躍していったこともあり、京都賞の思想・芸術部門の賞を授けられもしました。このとき彼は、絶対に正装はしない、シャツとジーンズで出ると言い張り、関係者との間でトラブルになったそうです。しかし日本の伝統衣装である羽織袴を着るのはどうかとアドバイスをうけ、彼はそれをいいアイデアだとうけとり、羽織袴を着て受賞をしたそうです。

その3年後、展覧会として新しい作品を考えていた彼ですが、脳溢血のためニューヨークで亡くなってしまいました。79歳でした。
亡くなる直前まで考えていた展覧会の構想は翌年に実現し、日本でも彼の亡くなったよくよく年に水戸美術館にて開催されました。

新しく、実験的な音楽をたくさん生み出したジョン・ケージ。彼の残した功績によって、音楽という芸術はこの先も進化し続けるのではないでしょうか。

『芸術詩手帖 ジョン・ケージ』思潮社
Wikipedia

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