ジョージ・ガーシュイン

ジョージ・ガーシュインの説明


ガーシュインはミュージカルの音楽など、ポピュラー作品から、クラシック音楽まで幅広く手掛けた作曲家です。

ジョージ・ガーシュインの生涯


ジョージ・ガーシュインは1898年9月26日にアメリカのブルックリンに生まれました。アイラという兄と、アーサーという弟、フランシスという妹がおり、アイラものちに音楽家になり、ジョージと一緒に演奏活動をしたりもしました。
父親は教育を受けたことがあまりない人生ながら、28種類もの職業を経験してきた人でした。母親は毛皮職人の家に生まれた人で、両親ともそれほど音楽に親しみがあったわけではありませんでした。

彼らの先祖はユダヤ人だったのですが、ガーシュインの家族はそうした宗教にこだわることなく、自由に生きていました。そんな自由な家庭の雰囲気から、ガーシュインは不良少年としてそっだってしまったりもします。彼は学校の成績も良くなく、いたずらばかりしていた生徒で、兄のアイラはそんな彼のことで先生に相談したりもしていたほどだったそうです。

そんなガーシュインの音楽との出会いは、街の中でした。6歳の彼はローラースケートで街を走り回っていたとき、お金を入れると自動楽器が流行りの曲を演奏する機械を見つけ、それを鳴らしてみたのです。その時流れた曲に心を奪われたのと、偶然有名ヴァイオリン弾きの少年の演奏を聴いたのがきっかけとなり、彼は音楽にのめり込むようになりました。
友人のピアノで練習をし始めたり、時には自分自身でメロディを見つけ出したりと作曲みたいなことをし始めたりもしました。

12歳になったとき母親がピアノを買いました。このときまだ彼がピアノを弾けると知らなかった家族は、そのピアノを弾き始めたガーシュインに驚き、腰を抜かしたほどだったそうです。
その出来事から、彼は近所に住むグリーンという若い女性からレッスンを受けるようになりました。その後、紹介されたチャールズ・ハンビッツァーという作曲家に音楽について学ぶことになりますが、そこではクラシック音楽を尊重した教え方でした。この頃からポピュラー音楽が好きだったガーシュインは、そのことを隠しながら音楽を学んでいきました。彼が生きている間には発表されませんでしたが、この時すでに『君に会ってから』と『ラグダイム・トロイメライ』という歌の曲を作曲していました。

そして1914年には彼は通っていた商業高校をやめて、当時流行の音楽がひしめきあう町の一角で、簡単なピアニストとして活動し始めました。ここには楽譜の出版社があり、その楽譜の宣伝のためにピアノを弾いてみせる役をやっていたのです。
その後、リミック音楽出版社に正式に雇われますが、1917年には辞めてしまいました。流行の歌は、あくまで機械的に作られ、個性的な部分がなかったことが分かったからです。このことを理解したのと同時に、だからこそ自分はポピュラー音楽の作曲家になりたいと、彼は思うようになりました。

そして作曲家として活動を始めていくガーシュインですが、暮らしていくためにはお金を稼がなくてはなりません。まずは知人の紹介で劇場のピアニストとして働くことになりましたが、最初の仕事日とき演奏を大失敗してしまう経験を味わいます。しかし彼は劇場で働きたかったので別の劇場でリハーサル・ピアニストの仕事をもらいます。この仕事は続き、演奏や音楽をたくさん聴くことができ、彼の音楽の基にもなったと言えます。
そして作曲活動も進めていき、1918年、19歳の彼に高収入の契約が舞い込んできました。
その翌年にはミュージカルの上演も成功します。このミュージカルはすべてガーシュインが作曲した『ラ・ラ・ルシール』という作品です。上演は6か月間続き、彼の作曲家デビューが果たせたともいえるでしょう。

その後も作曲活動は続き、彼自身が都会に馴染む人間だったこともあり、大都会の音楽として彼の作品も扱われるようになっていきました。

そしてあの名曲『ラプソディ・イン・ブルー』も作曲されます。
1924年に行われたこの曲の初演日には、作曲家のラフマニノフやバイオリニストのクライスラーなど、何人もの有名な音楽家や、億万長者の人物をお客に招待して行われました。結果は大成功。冒頭のクラリネットのソロから、観客に衝撃を与えました。新しい音楽が生まれたとして、ガーシュインに大きな祝福を与えた観客。彼がこれから生み出す新しい音楽に期待をしました。
この『ラプソディ・イン・ブルー』の演奏で、知名度としても金銭面としても大成功したガーシュイン。彼はこの時25歳にして、大勢の人を圧倒させたのです。

ガーシュインはその後も知名度に怠けることなく作曲活動を続けました。
彼は集中力が非常に優れており、いくつもの計画を同時に進めることができました。その特技から、ピアノ協奏曲を作りながらミュージカル作品を作ったりして、短期間でたくさんの曲を書き、そして上演していきました。
彼はもはやフリーの作曲家として社会的にも地位を固めていました。

その後、演奏旅行などもしていったガーシュイン。1928年にはすでに大金持ちとなり、豪華なアパートに住み、最新の家具や高価な絵画に囲まれ、執事も雇うような生活をしていました。
同じ年、ある演奏会に行ったとき、何人もの有名な作曲家と合いました。そこにいた一人、イベールという作曲家にガーシュインは「自分は作曲について多くのことを知らないし、真面目な作品を書きたいと思っている」と告白しました。イベールが真面目な作品とはどういうものかと聞くと、彼はバッハの名前を出して説明を始めました。ガーシュインはポピュラー音楽だけでなく、バッハのようなクラシック曲も作りたいと思い始めていたのでした。

とはいえ次に世の中に大きく売り出した曲は、彼のデビューを飾った『ラプソディ・イン・ブルー』の第2の作品、『セカンド・ラプソディ』。しかしこの曲はとくに有名になることはありませんでした。批評家はこの曲を第1の『ラプソディ・イン・ブルー』よりも劣っていると言い、この批評は正しいと多くの人が思ったのです。
ガーシュインは自分のことを過信していたことに気づきました。

1932年、彼は友人たちとお休みをすごすために、キューバに旅行に出かけました。そこでキューバの民族音楽を聴き、それに使われている楽器を手に入れました。この時の刺激と入下楽器によって生まれたのが『キューバ序曲』という曲です。これは4つのキューバの打楽器を使った、オーケストラのための作品です。

そして彼の作曲した曲のみでプログラムされた演奏会でも演奏されますが、この演奏会には1万8千人もの観客が音楽スタジアムに詰め込まれるほどの大盛況でした。実際には加えて5千人ほどが満席によって入場を断られたので、2万人越えの人々が彼の音楽を求めてやってきたのです。

しかしその次の作品、『へんな英語でこごめんなさい』というミュージカルの音楽を依頼されますが、これは依頼主のせいで大失敗してしまいました。彼はこの件で、ミュージカルのどん底を経験しました。

そして彼はミュージカル作曲家としての活動を終わりにしました。ひっそりとその活動を終え、前から思っていた「真面目な」音楽を作ることにしたのです。
そのとき契約を結んだ『ポーギー』という音楽劇も、ミュージカルではなく、オペラにしたいと考え、制作を始めていきました。この『ポーギー』は、芸術としては成功しましたが、上演としては失敗に終わってしまいました。音楽の内容は素晴らしい出来になったのエスが、あまり上演回数が伸びなかったのです。

ガーシュインが38歳になる1936年からは、ハリウッド映画の音楽づくりがされました。彼にとっても映画音楽は新しいジャンルで、精神的にも負担が出るようになりました。
この年以降、彼は奇妙な行動を起こすようになります。これは脳腫瘍という病気に犯され始めていたせいとされています。
1937年には指揮をふっている途中、よろめいたり、めまいが頻繁に起こるようになりました。その後も病気が進行しておかしな行動をとるようになり、彼は昏睡状態におちいり、そのまま目を覚まさなくなってしまいました。彼の病気を治すためにホワイトハウスが動いたり、軍の船をつかって名医の乗ったヨットを探したりと、異例の努力がされましたが、その甲斐は無く、38歳にして彼はこの世を去ってしまいました。

ポピュラー音楽とクラシック音楽を混ぜ合わせた作品を作り出したガーシュイン。彼のアイディアあふれる曲は今でもたくさんの人に愛されています。

「大作曲家 ガーシュイン」ハンスペーター・クレルマン 著 渋谷和邦 訳

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