ドミトリイ・ショスタコーヴィチの説明
戦争と活動を紐づけられていた作曲家、ショスタコーヴィチ。彼の音楽は、本当は芸術のために生まれてきたものでした。
ドミトリイ・ショスタコーヴィチの生涯
ドミトリイ・ショスタコーヴィチは1906年9月25日、ロシアのサンクトペテルブルクに長男として生まれました。祖先に音楽家がいて、彼の母親も音楽院を出たピアノ奏者でした。父親は科学の勉強をして、炭の工場で働いていました。
家族の仲が良く、暖かな家庭で育ったショスタコーヴィチ。母親が学生時代からの仲間と一緒に演奏会を開いたりしていたので、日常的に音楽に接して育っていきました。
1915年の春、ショスタコーヴィチは母親に連れられてオペラを観に行きました。生まれて初めて観るオペラに魅了されたショスタコーヴィチ。観に行った翌日、オペラで流れた曲の殆どを歌い、家族を驚かせました。
しかし彼は音楽の勉強を始めるのを嫌がっていました。姉のマリアが何度もピアノの前で泣いているのを見ていたからです。しかし母親は子供が9歳になったらピアノのレッスンをすると決めていたので、ショスタコーヴィチもピアノを習わされることになります。最初のレッスンで母親は驚きました。彼は絶対音感と、驚異的な記憶力を持っていたのです。
ショスタコーヴィチは商業学校に通っていましたが、音楽院に転校しました。これは商業学校が国の革命によって廃止されたことによるもので、姉の勧めもあって音楽をまなぶばに行くことになったのです。
ちょうどこのころ、彼はピアノのレッスンを受けながらも作曲に興味がわくようになりました。彼は12,13歳のころにはすでに自作の曲を30曲ほど書き留めてたそうです。
そして1919年、音楽院生活が本格的に始まります。ひどい寒さと貧しさの中で始まった生活。さらには劇場や演奏会場、音楽出版社や音楽院などが次々に国の所有物とされ、音楽家は国家に従うことを強いられてしまいました。
それでも彼ら音楽家は、革命としてクラブや工場、寄宿舎などに出向いて演奏会を開催し、貴族とは無縁の客から熱狂的な歓迎を受けていました。
1920年、14歳のショスタコーヴィチはピアノのレッスンのクラスを変え、急激な進歩を遂げます。また作曲の方法も教わりました。
学校での教育だけでは物足りなかったショスタコーヴィチは、有名な音楽愛好家アンナ・フォークトの家出ヘラ枯れる勉強会に参加するようになります。
勉強も順調に進んでいきましたが、突然、父親が病気になり亡くなってしまいました。ショスタコーヴィチも家計を支えるために働こうとしましたが、姉が彼の才能を信じ、学業に専念するようにといったのです。
そして彼は結核を患ってしまいながらも、無事に音楽院を卒業し、体力が回復してからは家族を救うためにピアニストしての演奏活動に取り組み始めます。家庭では食事が一日に1度だったり、家賃が支払えず裁判所に呼び出されたりするほどでした。ショスタコーヴィチは映画館で無声映画のピアノ付けのアルバイトをしたりしますが、作曲の方ではスランプ状態になっていました。しかし交響曲を書き続け、1926年、『交響曲第1番』が初演されます。演奏は成功し、嵐のような拍手の大喝采。しかもアンコールのあと舞台上に呼び出された作曲家が19歳の学生だったことに客は大きな衝撃を受けました。
しかしショスタコーヴィチは将来、作曲家とピアニストのどちらになるか、悩んでいる最中でもありました。
『交響曲第1番』では成功した彼ですが、その後作曲したバレエ音楽の『鼻』『黄金時代』『ボルト』は3作ともすべて失敗してしまいます。彼は当時の傾向だった音楽の政治的な利用を批判して作曲に向かっていたのです。
そんなショスタコーヴィチは1932年、ニーナ・ヴァルザルという女性と密かに結婚式を挙げました。このとき作曲した『ムツェンク郡のマクベス夫人』というオペラは例に無いくらいに上演されました。その回数はなんと約二年で177回。スキャンダルとして報道されたりするほどでした。
その後、彼は映画音楽の分野で大きく活躍しました。なかでもロシア民謡や革命の歌を模したメロディが使われた曲は人気になり、次々と映画音楽を作っていきました。
映画音楽作っている最中も、彼のオペラは上演されていました。しかしそのオペラが強く批判される事件が起きたのです。『ムツェンク郡のマクベス夫人』の曲のことを、支離滅裂だと言ったのです。過去に賞賛された曲なのに、その批判の言葉が広がると音楽家たちは手のひらを反して批判に賛同しました。それはショスタコーヴィチにとって侮辱になり、その影響でピアニストとしての仕事もかなり減ってしまいました。演奏会でも彼の作品が奏でられることはなく、ショスタコーヴィチは孤立してしまったのです。
しかし彼はめげずに作品を発表します。新たに作曲した『交響曲第5番』は成功を収め、その後は次第に安定を取り戻していきました。
『交響曲第6番』も作曲し、すぐに『交響曲第7番』も完成しました。この『交響曲第7番』はロシア民族の戦いと勝利を表しているという論文まで発表され、戦争との関りを強く印象付けられてから上演されました。この曲は彼の作品の中でももっとも大編成の曲でしたが、戦争中のロシアのいたるところで演奏されました。1942年8月9日に行われた演奏会では、記録的な大寒波と飢餓が起きた年でしたが、生き延びることができた管弦楽団のメンバー15人では人数が足りなかったので既に引退した音楽家や兵士として戦争に参加していた音楽家が急遽戦いの前線から呼び戻されたほどでした。楽譜は軍の関係者から戦いの前線をぬって運ばました。演奏会当日には敵のドイツからの攻撃を防ぐために直前までロシアの猛攻撃が続けられたりもしました。演奏のために戦い方を考えるほどに、音楽と国家は密接していたのです。演奏のホールはもちろん満員で、熱気と興奮に包まれていたそうです。
この『交響曲第7番』の作曲の翌年、彼はロシア共和国功労芸術家の称号を貰います。そしてその翌年にはモスクワ音楽院の教授になることができました。その後も様々な賞や称号を貰い、議会の議員にも立候補しました。またレニングラード音楽院のきょうじゅとしても働き始めましたが、国家と喧嘩をしてしまい、音楽院の仕事はすべてやめさせられてしまいました。
その後も作曲は続けられましたが、彼の精神はすり減っていきました。そしてさらには1954年には妻がガンになって若くして亡くなってしまいます。彼は悲しみに暮れ、彼女に捧げた『ムツェンク郡のマクベス夫人』の楽譜を久しぶりに手に取りました。最初こそ受け入れられ成功しましたが、ある批判によって手のひら返しをされた曲です。この曲を改めて
編曲し『カテリーナ・イズマイロヴァ』という題名で発表しようとしましたが、発表前の検査でまたしても批判されるのです。ショスタコーヴィチは目を閉じたまま黙って侮辱の言葉を聞いていました。彼は反論することなくその批判に対して皮肉の感謝を述べただけでした。彼はこの頃から衰弱が始まっていたのです。
1958年、ショスタコーヴィチは52歳になる年、右手の麻痺を治療するために入院生活を送っていました。
その右手の麻痺もあって、作曲活動を控えていたショスタコーヴィチですが、1959年以降再び作曲に力を入れ始めました。依頼して作った『チェロ協奏曲』がそのきっかけになったのです。その曲はまるで短編小説のように鮮やかな構成で、今でも人気の曲のひとつです。
とはいえ、年を取り老いてきている体のショスタコーヴィチは、進行する病気の検査のために入院をすることになりました。しかしその4週間ほどで交響曲のピアノ版を完成させたりと、音楽活動は続けていました。
その後も映画音楽や交響曲の作曲を続けていくショスタコーヴィチ。しかし65歳の誕生日を間近にして、二度目の心臓発作によって倒れてしまいました。2ヶ月の入院生活を巣つことになりましたが、もはや彼は回復の兆しが見えませんでした。
しかしそんななかでも彼は海外に出かけなければなりませんでした。様々な国が彼に送る名誉の称号を受け取りに行かなければいけなかったのです。彼自身はその称号に関心を持ちませんでしたが、本人しか受け取れないために何度か出かけなければなりませんでした。また、彼自身の意志で演奏に出かけたりもしていました。もう命が長くないと思うと、彼は焦るように音楽活動に力を入れたのです。
そして1974年はその行動力のおかげか、実りの多い年でした。教会の歌のように厳かな音楽を作ったり、反対に衝撃の強い曲を作ったりもしました。
彼は体力の許す限り音楽の現場に立ち続けましたが、『ヴィオラソナタ』を完成させた数日後、呼吸不全になり病院に運ばれました。ガンが肺や肝臓にまで転移していたのです。一度は症状が落ち着きましたが、『ヴィオラソナタ』の仕上げを書いている時に心臓発作が起こりました。集中治療によって一命をとりとめ、その楽譜を依頼主に手渡ししましたが、数日後、68歳で彼は息を引き取りました。
後日、彼の最後の作品の演奏は拍手喝采されました。その拍手をショスタコーヴィチ自身に宛てるように演奏者は楽譜を頭の上に掲げました。
「作曲家 人と作品 ショスタコーヴィチ」千葉潤 著