ドメニコ・スカルラッティの説明
チェンバロという鍵盤楽器の作品を多く生んだドメニコ・スカルラッティ。
ドメニコ・スカルラッティの生涯
彼は1685年10月26日にイタリアのナポリという土地に生まれました。
父親はアレッサンドロ・スカルラッティといい、とても有名な作曲家でした。ドメニコ・スカルラッティは10人兄弟のうちの6番目で、父親が25歳のときに生まれました。ちょうどこの頃、父親は作曲家として急激に有名になっていった年でもあります。
そんな父親の存在を、ドメニコ・スカルラッティは小さい時から一家の中心的な存在として見ていました。
また、母親も音楽家の一族だったため、彼が音楽家になることは両親も考えられたことでしょう。ドメニコ・スカルラッティも作曲家として成長していきますが、彼の兄も作曲家になり、姉も歌手になる人生を歩んでいきました。
こうした音楽一家のもとに訪ねる人々も、音楽の関係者が多かったといいます。そのため、ドメニコ・スカルラッティは小さい頃から身の回りに音楽が溢れていたことが想像できるでしょう。
そのため、彼がいつから自分で音楽を奏で始めたのか、正確なことが分からないのです。
彼がきちんとした音楽教育を受けたかもよく分かっておらず、もしかしたら周りの大人たちが奏でている音楽を基にして自分の音楽性を磨き始めたかもしれません。
とはいえ、小さい頃から歌と通奏低音という伴奏方法、鍵盤楽器の演奏方法、楽譜の書き方などの基本的なことは教育されていたそうです。そして10歳の頃には作曲もし始めていました。
そして15歳には王室付属の礼拝堂のオルガン奏者、作曲家として仕事に就いたのです。
彼の活躍には父親がとても協力しており、イタリアの外での音楽活動を今後やっていけるために国の偉い人と文通をしたりもしていました。
そしてまずはナポリを出てフィレンツェへ行き、ローマにも行きました。そこで演奏会に出席したり、ハープシコードというチェンバロの進化系の鍵盤楽器に触れたりしたそうです。
しかし彼は1702年にはナポリに戻り、そこでオペラを2作品上演しました。
ですが父親がドメニコの将来を考えてヴェネチアに向かわせることにしました。当時有名だったカストラート歌手のニコロ・グリマルディという人物とともに音楽の勉強をさせる為でした。ちなみにカストラートとは、男性でありながら女性のような声をだして歌を歌う歌手のことです。
ヴェネチアは音楽や舞踏会が盛んな街で、彼はそこでたくさんの音楽と触れ合いました。
またこのころ彼は20歳になる年でしたが、彼自身が自分の作曲技法の力不足を感じていたため、ガスパリーニという有名な作曲家に作品を見てもらうことにしました。またガスパリーニの仕事の助手をつとめたりして、現場での経験も積んでいきました。
そうして現場の経験や知識を蓄えたスカルラッティですが、オペラ作品はあまり書きませんでした。彼は人々からの関心を避けようとしていたため、大掛かりなオペラを作るのを避けていたのだと考えられます。彼の作品はあくまで自分のためであり、演奏技術が高くても人々に聞かせることはあまりなかったといわれています。
1709年頃、彼は偉大な作曲家ヘンデルと出会いました。ヘンデルはスカルラッティの独特な演奏に興味を持ち、イタリア中を彼と一緒に回っていきました。演奏法だけでなく、スカルラッティの温かい性格と物静かな態度がヘンデルはとても気に入って、居心地のいい仲だったそうです。スカルラッティ自身もヘンデルのことを尊敬しており、お互いにいい関係でした。
その後彼は父親のはからいでポーランドのマリア・カジミーラという王妃に使えることになりました。スカルラッティは王妃のために作曲をすることになったのです。
そうして仕えているうちに、彼はその地で有名な作曲家としての地位を獲得しました。
そしてその後、ポルトガルの大使との繋がりによって王室の礼拝堂の音楽監督になることができました。また王女に音楽についてを教えたりもしました。この頃の彼の活動の記録は、1755年に起きた地震によってなくなってしまったため、今では詳しいことはあまり分かっていません。
スカルラッティが40歳になる1725年、長年活動を支えてくれていた父親が亡くなってしまいました。父親の死はスカルラッティ自身の節目にもなっていました。彼のこれまでの作曲した音楽が、父親の影響を強く受けたものだったからです。父親がいなくなってしまい、彼は彼自身の音楽を作り上げていくことになったのです。
その3年後、彼は結婚という節目も迎えました。彼は43歳になる年ですが、結婚相手は16歳でした。年の差のある結婚ですが、彼女との出会いなどは残念ながらよく分かっていません。
その後、彼が音楽を教えていた王女がスペインの王家に嫁ぐことになり、彼もいっしょにスペインのマドリードに移りました。王女は活躍してくれるスカルラッティに名誉の賞を授けたかったのですが彼女自身にその権力がありませんでした。そこでスカルラッティは騎士になる資格を持っていたため、騎士団というとても名誉ある地位に任命されました。
そして彼は、騎士になれたことへの感謝として鍵盤楽器の曲集を献呈しました。それが『チェンバロ練習曲集』というソナタ集です。そのなかに今でも有名な『猫のフーガ』という曲が収録されています。
1746年、彼が61歳になる年はちょうどファリネッリという作曲家がイタリアでオペラを大ブームを巻き起こしていました。しかしそれでもスカルラッティはオペラの作曲はしませんでした。ち
彼は王妃のためにチェンバロ演奏用のソナタを書いていたのです。30曲ずつ収録された曲集を、5年間で13巻も作ったのです。
67歳になることには彼の音楽は成熟したといわれており、その最高潮の作品がこのソナタ集になるとされています。
その後、彼の作曲家としての有名さ具合はイギリスにまで渡りました。彼の作った曲がたくさん演奏されたのです。そしてイギリスと深く関係を持っていたアメリカにまでもスカルラッティの名前は知れ渡っていたそうです。
しかし彼が生まれたイタリアでは、そこまで有名な作曲家として扱われていたわけではありませんでした。楽譜の出版もあまりなかったそうです。
そんなスカルラッティはソナタをたくさん書いていましたが、その間にもしっとりとした旋律が特徴のセレナードを書いたり、舟遊びの曲などもたくさん書いていました。
たくさん作曲していたスカルラッティですが、もう70歳になることもあり、病気で家に閉じこもりがちになっていました。彼は実はギャンブルをかなり好んでおり、それによる生活の乱れも影響していたと考えられています。
1749年、彼は遺書を書きました。もう自分の命が長くないことを自覚してきたのでしょう。
そして1757年7月23日、スカルラッティは教会で儀式をうけたあと、71歳で亡くなりました。
彼は修道院の敷地の中でも人目のつかない場所に葬られ、いまどこに彼が眠っているのかは分からないといわれています。
音楽一家であり、小さい頃から活躍していたスカルラッティ。音楽的な成熟は遅い時期に訪れたといわれていますが、彼の音楽はいつでも彼らしさがあったのではないでしょうか。
『ドメニコ・スカルラッティ』ラルフ・カークパトリック著 千蔵八郎、阪本みどり 訳