バルトーク・ベーラ

バルトーク・ベーラの説明


バルトークは作曲家と、民俗音楽の研究家として活躍した人物です。

バルトーク・ベーラの生涯


1881年3月25日、ハンガリーのナジセントミンクロージュという地牧場のあるのどかな場所に生まれた、バルトーク・ベーラ。父親は農学校の校長をしており、ピアノを弾くことが大好きで、他にもアマチュアのオーケストラにチェロを弾いて参加することもありました。母親はピアニストで、バルトークは両親ともに音楽に接している家庭に生まれたのです。
しかしバルトークは体が弱く、気管支炎や背中の骨の奇形などの病気から、歩けるようになるのも、話せるようになるのも遅かったという記録が残っています。
そんな小さい頃からの闘病生活から、彼は母親の歌や物語を聞いて過ごすことが多かったそうです。

そうしたなか、1886年、バルトークは母親からピアノを教わり始めます。音楽一家の一員として学び始めるバルトーク。しかし2年後、父親を失ってしまいます。母親は一人で子供を育てなければならなくなり、1889年、ナジセーレーシュというところに引っ越しをしました。
このとき8歳だったバルトークは初めて『ワルツ』を作曲をしたと言われています。しかし彼の若い頃の作品は彼自身によって捨てられてしまったため、定かではありません。

その後、中学校での勉強を終えたバルトークは、どこで音楽の勉強を受けるか悩んでいました。オーストリアのウィーンになる音楽院が一番さ変えていましたが、知人のおすすめからハンガリーのブダペスト音楽院に進むことに決めました。

ブダペスト音楽院では作曲のクラスに入り、熱心に勉強に取り組んだバルトークは先生からもお気に入りの生徒になりました。
音楽院に通いながら、オペラや演奏会に頻繁に通ったバルトーク。彼が生まれた田舎は音楽文化から遠かったため、目新しく、彼にとっても必要な経験でしたが、出費がかなり嵩んでしまいました。
しかし勉強に熱中し、ワーグナーやリスト、シューマンなど、有名な作曲家の作品を研究し、自分の作曲に使うスタイルや幅を広げていきました。
そして音楽院の卒業は、在学中の作曲家としての活動や、演奏の上手さから、ほとんど試験を受けることなかったほどに、バルトークの音楽は大きなものになっていました。

1903年には奨学金の獲得のおかげでドイツのベルリンに滞在することが可能になりました。そこでは素晴らしい演奏会やオペラを観たり聴いたり、充実した図書館で勉強できたりと、より豊かな音楽生活が過ごせたのです。この時の彼は、演奏家と作曲家を両立していこうと考えていました。
しかし1905年のコンクールでピアノ演奏は2位になり、作曲部門でも落選してしまいます。演奏の方はまだしも、作曲部門での落選に彼はがっかりして、不服な状態でした。

コンクールの結果は良くありませんでしたが、彼は民族音楽への研究を深めていきました。同じ年に作曲した『管弦楽の第1組曲』は特にその傾向が強く、農民の踊りのリズムや、田園の情感などがよく表れています。また、この曲の作曲の最中に、民謡を探しに出かけたりもしました。

その後1907年、母校のブダペスト音楽院のピアノ高等科クラスの担任になることができました。彼はピアノを教えるのを嫌っていましたが、安定した職場に就くことができるということで、その仕事をすることを決意したのです。

またその2年後、1909年にはピアノを教えていた生徒と結婚もしました。マルタ・ツィーグラーという女性で、当時彼女は16歳で、バルトークは28歳でした
翌年には男の子が生まれ、これで幸せな家庭生活が送れると思いましたが、翌年の1911年のハンガリー芸術委員会賞の応募が落選してしまいました。むしろ否定的に扱われ、「演奏不可能だ」といわれ楽譜を突き返されてしまったのです。その作品は『青ひげ公の城』というオペラ曲。しかしこの曲は1918年にブダペストの国立歌劇場で上演されたとき、熱狂の嵐を引き起こしました。このように、偉い人には認め得られなくても、民衆には受け入れられるという現象は音楽の世界ではしばしばあるものです。しかしバルトークは落選の結果が出てからは3年程作曲を辞めて、かわりに民謡を集めたりそれを整理したりして過ごしました。

その後、第1次世界大戦が始まり、荒れた世界になり始めますが、音楽は作られ、えんそうされました。バルトークは『かかし王子』というバレエ作品を作り、初演も大成功。
しかし1919年は彼の活動の国ハンガリーも革命によって混乱が起き、彼は移住を計画します。勤めていた音楽院からお休みをもらい、ベルリンに行きますが、アメリカからハンガリー民謡についての論文を書いてほしいという依頼を受け、彼はそれを受けいれました。むしろ書籍としてまとめることを企画しました。

その後はイギリスやフランスで演奏旅行を行ったりして音楽活動も続けていきますが、彼が42歳の時、マルタ・ツィーグラーと離婚してしまいます。しかしその2か月後には、音楽院で教えていたクラスの教え子のひとり、パースストリ・ディッタと結婚しました。
同じ年、『舞踏組曲』を作曲しており、この曲はドイツだけでも年間50回ほど演奏される人気曲になりました。

しかしその後、3年間まったく作曲をしませんでした。その代わりにピアニストとして、イタリアやオランダで演奏会を行いました。
そして再び作曲に取り掛かり、『ピアノソナタ』や『ピアノ協奏曲第1番』などを作ります。
その後もソヴィエトやスペイン、カイロ、フランクフルト、ストックホルム、トルコ、スイス、と様々な国をめぐりながら作曲し、それを各地で発表してきました。
順調に活動を広げていたバルトークですが、1938年から1年間は争いや革命によるヨーロッパ全体の重い空気が彼自身にものしかかってきました。それによって出版社との契約を諦め、計画を変更したりしなければならなくなりました。

しかし彼はその翌年、傑作を生みだします。まず先に『弦楽のためのディヴェルティメント』が作曲され、この曲には豊かな旋律やリズム、色彩や幻想的な雰囲気を盛り込み、現在でも人気の曲です。
他にも『弦楽四重奏第6番』を作曲したりしましたが、同時に母親が亡くなったという悲しい知らせも届いてしまいます。またこのとき、長年続けていた民族音楽の研究も、辞めなければならなくなるかもしれない状況になりました。政治的な理由から、この研究はスパイ活動としての疑いがかけられるかもしれない時代になっていたのです。

翌年の1940年の5月から6月にかけて、アメリカにて演奏会を行いました。10月にはアメリカに移住し、コロンビア大学から民族音楽の研究について名誉博士号の称号を貰うことができました。このとき、時代の影響から出版社からの収入は皆無だったバルトークにとって、この称号は望みを持てるものでした。
しかしアメリカでの生活は彼に合わず、演奏活動も気が乗らないでいました。試しに演奏会を開く契約を結んでも、1年でたったの10回しか開催されず、内容も華々しいものではありませんでした。

悪いことはさらに続いてしまいます。彼の体調が日に日に悪くなっていたのです。毎晩熱が出るようになり、そんな状態でも演奏会を開いたりしました。19443年1月21日の演奏会を最後に、彼は公の前に現れなくなります。しかしそんなバルトークを心配しアメリカ作曲家協会という協会が病院での治療費を払ってくれました。さらには財団から1000ドルを支払うといって作品の依頼が入ったのです。彼は自分の健康状態からそれを躊躇いましたが、引き受けることにしました。そして作られたのが『管弦楽のための協奏曲』です。さらに作曲の依頼が入ってきました。そして『無伴奏ヴァイオリン・ソナタ』を完成させますが、この時かれの病気が白血病だと診断されました。

その後も何曲か作曲をしますが、『ヴィオラ協奏曲』を手掛けている途中、彼は亡くなってしまいました。作曲途中の『ヴィオラ協奏曲』は生徒であり友人でもあったティボール・シェルリーという人物によって完成されました。

民族音楽を研究し、それを自分の音楽にとり込んだ作曲家、バルトーク。彼と彼が研究してきた民族音楽は、これからも奏でられ続けるでしょう。

「バルトーク 生涯・作品」セルジュ・モルー 著 柴田南雄 訳

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