ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー

ピョートル・イリイチ・チャイコフスキーの説明


ロシアの有名な作曲家、チャイコフスキー。才能がないと言われネガティブな考え方を持たざるを得ない人生でしたが、彼の音楽の斬新さはとても誇れるものでした。

ピョートル・イリイチ・チャイコフスキーの生涯


ピョートル・イリイチ・チャイコフスキーは1740年5月7日、ロシアのウラル地方の町で生まれました。父親は鉱山で政府の監督官を務める貴族で、母親はフランス人の血を引く女性でした。不自由のない暮らしができる家庭で、母親がピアノを引けたことから、チャイコフスキーも5歳の頃から母親にピアノを教わっていました。
しかし伝染病のコレラが流行っていたことから、一家はロシアの首都ペテルブルグに引っ越します。すると仕事にありつけず、また引っ越しをします。しかしその引っ越し先ではチャイコフスキーは寄宿生の法律学校に通わなければならなくなり、家族の元を離れなければいけなくなりました。それはわずか10歳にして、子供としての時代が終わったようなものでした。

この時はチャイコフスキーが将来音楽家になるだろうとは、本人を含め誰も予想していなかったといいます。
しかし1854年、法律学校にも馴染んできたころに母親がコレラにかかって亡くなったという知らせが届きます。家族もバラバラになり、チャイコフスキーは悲しみを忘れようと音楽に打ち込み始めるようになります。14歳の彼は歌とピアノのレッスンを受け始めますが、16歳になったとき「才能のかけらもなく、音楽家の道を歩むことはおすすめできません」と父親に手紙が送られているような状況でした。
職業として音楽家にはなれなくても、音楽を楽しむことはできるとして、彼はそれでも音楽の勉強は辞めませんでした。

そして彼は親が決めた人生を歩み始めます。法律学校の成績は平凡でしたが、法務省で働くことができ、19歳にして給料をもらい、そのお金で演劇やオペラ、バレエを見に行ったりして楽しんでいました。
法務省から夏の休みを貰ったチャイコフスキーはヨーロッパ旅行に出かけることにしました。ドイツ、ベルギー、オランダ、フランスをめぐっているうちに、彼は音楽を仕事したいと再び夢見るようになったのです。ロシアでは音楽家という職業はまったく地位がなかったのですが、旅行で巡った国々は音楽家は立派な仕事だと考えられている地だったのです。そして彼はペテルブルグに戻ると、ロシア音楽協会の主催する教室で音楽理論と作曲法を学び始めました。昼は働き、夜は勉強という生活を送りながら、彼は音楽家として生きてみようという決心を固めたのです。そして1862年、新しく開設されたペテルブルグ音楽院に入学し、翌年には法務省に辞表を出し、音楽の勉強に専念することにしたのです。

法律学校での成績は平凡だったチャイコフスキーですが、音楽学校では違いました。とある課題では、ひとつの主題に対して12の変奏曲を作るようにという宿題を出したところ、チャイコフスキーは200以上もの変奏曲を作曲して提出したのです。
しかし業制作として『歓喜に寄す』という創作に取り掛かるのですが、ベートーヴェンの『第9交響曲』の最終楽章のテーマにもなっている詩を使うので、どうしてもベートーヴェンの偉大な作品と比べられてしまうのです。これは彼の傷つきやすく落ち込みやすい性格でありながらも大冒険をした選択でした。しかし卒業審査会という有名な音楽家たちからの質問に受け答えをしなければならない会を、自分に自信が持てなかったチャイコフスキーは当日欠席をしてしまいました。卒業制作の『歓喜に寄す』は成功したのですが、その発表の場にも彼は姿を表さず、学校の院長は激怒してしまいました。
院長の怒りを鎮め、どうにか無事に卒業することができ、チャイコフスキーは優れた成績をおさめたとして銀のメダルも授与されました。

そして彼はモスクワへ向かいました。音楽教室の音楽理論の教師として仕事を得たのです。また彼はそこで働くだけでなく、作曲にも取り掛かり始めました。『交響曲第1番 ト短調』はこのとき書かれたものです。彼はこの曲に自分自身の人生の主題、つまりロシアの田園地方を愛する気持ちを込めました。当時はあまり曲名に表題をつける文化ではなかったのですが、彼はその曲の交響曲に『冬の日の幻想』と表題をつけ、第1楽章には「冬の旅の夢想」、第2楽章には「陰気な土地、霧の土地」という題名を付けました。しかしこの曲の上演は失敗に終わってしまいます。彼の個性を強く出しすぎたせいで、頭の固い音楽院の教師や批評家は反発したのです。批判をする人々は、チャイコフスキーの音楽にみられる感情移入を嫌ったのでした。

そんなチャイコフスキーは作品の認められなさとは別に、同性愛者という自覚にも悩まされていました。19世紀のロシアでは同性愛は珍しいことではありませんでしたが、人前で話題にすることは許されていませんでした。またチャイコフスキーは同性愛者でありながらも、家庭生活にも憧れていたのです。そしてなかば自暴自棄になりながらも女性と結婚をしたチャイコフスキー。これは失敗の選択でした。
また、失敗は音楽の方でも続きました。オペラ『ボエボーダ』が「ロシア風がない」「ドイツやイタリアの音楽の影響が強すぎる」などと批評家から酷く言われてしまったのです。聴衆は夢中にはなりましたが、わずか5回の上演でこのオペラは幕を下ろしました。チャイコフスキーは楽譜の大部分を破り捨て、現在では楽譜の切れ端が何枚かしか残っていない状態です。

しかしチャイコフスキーはめげずに作曲を続けます。そして生み出されたのが『ロミオとジュリエット』や『交響曲第2番』、『テンペスト』、『白鳥の湖』などです。彼はますます独創的な作品を生み出していきました。自由に旋律を書き、感情に訴えかける音楽を作り出すために力を注ぎました。この作曲方法は音楽学校の教師たちからは作曲の規則を違反した作品として見られましたが、聴衆はむしろこの作曲方法での音楽を熱狂的に迎え、大きな拍手が送られたのです。コンサートホールには新しい音楽を楽しみたいと思う人がたくさん訪れたといいます。
『ピアノ協奏曲第1番』でも、事前に教師に完成品をみせたときに「すべて書き直した方がいい」と酷い言われようでしたが、そのままの楽譜でアメリカで初演すると聴衆は大歓迎で成功を収めたのです。このとき有名なピアニスト、ハンス・フォン・ビューローはこの曲を聞いて「高潔で力強く、独創的な曲想。完璧に成熟し、気品あふれる形式。あなたの作品の素晴らしさを全て数えようとするなら、私は疲れ果ててしまうでしょう」と大絶賛したほどでした。

そして1878年、オペラ『エウゲニ・オネーギン』というチャイコフスキーのオペラの最高傑作といわれる作品が完成します。ちょうどこのとき自暴自棄に結んだ結婚からも解放され、さらに作曲に専念していきました。38歳になった彼ですが、仕事さえしていれば最高に幸せだったという状況でした。
そしてナポレオンとの戦いを記念した作品、序曲『1812年』は本物の大砲が打ち鳴らされたりと、前衛的な曲を書いてどんどん知名度を上げていったチャイコフスキー。彼に一目会いたいと願い、彼の作品をほめちぎる音楽ファンが外国にまで大勢いたほどです。

1885年にはロシア音楽協会のモスクワ支部の理事にまで選ばれました。19年前に彼に初めて音楽教師という仕事を与えてくれた組織の代表になることができたのです。
ファンも増え、仕事も昇進したチャイコフスキーですが、彼には相変わらず不安が付きまとっていました。自分自身の音楽家としての能力や、人間的価値を疑う気持ちは、いくら聴衆から拍手が送られ賛辞を受けても拭えなかったのです。

アメリカへの演奏旅行も成功を収め、帰国後に彼は『くるみ割り人形』の作曲に取り掛かり始めました。しかし過去に作った『白鳥の湖』と『眠れる森の美女』の上演と同じように、この『くるみ割り人形』も成功することはありませんでした。今では人気のバレエ音楽でしたが、彼が生きている時にはまったく評価されなかったのです。のちに偉大な作曲家ストラヴィンスキーはチャイコフスキーのことを大きく評価しました。「彼の音楽はメロデ作りにずばぬけた才能を持っているからバレエ音楽に成功していた」と。
他にも『交響曲第6番 悲愴』という曲も、チャイコフスキーが亡くなってから大きく評価された曲です。

そして1893年11月1日、チャイコフスキーはレストランでの食事をした翌朝、消化不良と不眠を訴えました。翌日友人の家を訪ねるために外出しますが、すぐに戻ってきてしまいます。その後も弟や甥と昼食の席につきましたが、彼は何も口にしませんでした。その食卓で話をしていたとき、1杯の水を飲みました。その数時間後、彼の体調は一層悪くなり、医者はコレラにかかったと診断を下したのです。食卓で飲んだのが生水でコレラ菌のまじったものだと予想され、彼は酷い症状に苦しみました。そしてその4日後、彼は53歳にしてその生涯を閉じたのです。

チャイコフスキーの音楽は聴衆にこそ受け入れられていましたが、彼の代表作とも入れるものの多くは死後に評価されました。批評を受けながらも作曲を続けた彼の音楽は、これからも輝きを増していくでしょう。

「伝記 世界の作曲家 チャイコフスキー」マイケル・ポラード著 五味悦子訳 偕成社

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