フェリックス・メンデルスゾーンの説明
ユダヤ人の家系であったことによって、活動がしにくかったメンデルスゾーン。しかし彼の教養の高さや音楽の魅力は宗教関係なしに素晴らしいものでした。
フェリックス・メンデルスゾーンの生涯
フェリックス・メンデルスゾーンは、1809年、ドイツのハンブルクに生まれました。父親は銀行家、母親は教養の高くピアノも上手な女性でした。宗教の関係からフランスのパリに引っ越す一家ですが、そのとき叔母にメンデルスゾーンとその姉を紹介します。2人は幼いながらも音楽の才能があると、2人にレッスンをしていた母親は感じていたのです。叔母には姉弟のピアノ連弾を見せました。すると彼らの才能を褒め称え、本格的にピアノのレッスンを受けることを薦め、先生を紹介してくれました。
そして新しい音楽の先生ルートヴィヒ・ベルガーに、演奏だけでなく曲の構造も学び始めます。ピアノだけでなくバイオリンの先生も呼びました。他にも英語やフランス語、イタリア語やギリシャ語、ラテン語や、数学、乗馬や画家など、たくさんの先生がメンデルスゾーンに就きました。どの先生も一流の有名人で、父親の財力と人脈を駆使して揃えられたのです。この教養の高さはユダヤの宗教にも関係しているので、ある意味では必然的なことだったのです。また、学校にいくとユダヤ人ということでいじめられる可能性があったから、先生を家に呼ぶという優しさも含まれていました。
メンデルスゾーンは勉強好きだったので苦痛ではなかったそうです。休み時間にもゲーテという偉大な詩人の本を読んだり、絵を描いたりしていました。
さらに作曲の分野では、教わって1年たらずで60曲もの歌曲やピアノ曲を書いたり、練習帳は44冊にもわたったりと、大量で質の高い曲をつぎつぎと生み出していったのです。
彼の素晴らしい才能をもっと豊かにするために、ゲーテの家で世話になってもらうことにしました。当時からゲーテはドイツ人のすべてから神のように崇められ、有名な人物でなければ会うことも難しい人でしたが、父親の人脈でメンデルスゾーンはゲーテに会うことができました。そして彼はゲーテのためにバッハ作曲のピアノ曲を弾きました。ゲーテはその演奏に目も耳も心も奪われ、メンデルスゾーンを愛情込めて世話することにしたのです。
また、勉強ばかりしているメンデルスゾーンでしたが、子どもらしい活発さや、無邪気さなど、愛される要素もたくさんもっていた魅力的な少年だったのです。
そしてまた1年間の勉強や、勉強を兼ねた旅行をたくさんこなしたメンデルスゾーン。この間にも彼は小交響曲を6曲、協奏曲を5曲、オペラ、大規模な合唱曲を何曲も書いていました。忙しいスケジュールのなか、こんなにも作曲に時間をあてられ、しかもそれが大規模な作品の作曲なので周りは常に驚きと感動でした。
そして彼が13歳になる1822年、メンデルスゾーンの家で「第1回日曜音楽会」が開かれます。メンデルスゾーンはオーケストラの中でバイオリンを弾いたり、自作の曲の指揮を振ったりしました。観客は大評判で、世界的な音楽家たちも集まるほどに有名な音楽会になりました。
こうして家のオーケストラで演奏することができるようになり、メンデルスゾーンはますます作曲に力を入れていきます。15歳の「日曜音楽会」では一番世話になっていた音楽の先生であり、滅多に人を褒めないツェルターから「君が一人前の音楽家であることを宣言する」と伝えられたほどです。
1825年、友人の誕生日プレゼントとして『弦楽8重奏曲』が完成され、「日曜音楽会」で演奏されました。聴衆は驚きました。天才の想像力と、独創性、若さとエネルギーに溢れた音楽は、メンデルスゾーンの恐ろしいくらいの才能を圧倒的に表現していたのです。
また、シェイクスピアが原作の『真夏の夜の夢』のオーケストラ版を編曲したメンデルスゾーン。この作品の発表も大評判でした。まるで魔法にかけられたみたい、後世に残る大傑作だと、評判は広がり、たくさんの演奏会の招待状が彼に届きました。
しかしそんななか、彼の『カマーチョの結婚』というオペラは大失敗に終わってしまいます。上演には「日曜音楽会」の常連や、多くの著名人や友人知人で客席は埋め尽くされましたが、第1幕、第2幕、第3幕、と進むごとに拍手が起こらなくなりました。メンデルスゾーンは上演の途中でこの失敗を察知して劇場を逃げだしていました。このオペラは18歳のメンデルスゾーンの大きな挫折でした。
しかしその挫折も次への糧となり、バッハが作曲した『マタイ受難曲』の演奏公演の大成功にこぎつけます。元々バッハとゆかりがあったメンデルスゾーン家はバッハの曲を崇拝しており、その気持ちもあって公演が成功したともいえるでしょう。この公演はバッハ誕生の記念日にも再演され、またまた大成功。バッハの音楽が蔑ろにされていた時代でしたが、これを期に「バッハ復興運動」が進んだりと、メンデルスゾーンは20歳にして偉業を成し遂げたのです。
そんなメンデルスゾーンは教養の仕上げとして当時主流だった大掛かりな教養旅行に出ることになりました。そして旅行地ロンドンでのデビューも大成功し、のちに再びロンドンに訪れたときにも大歓迎を受けました。
しかし、そんなロンドンでの歓迎とは別に、悲しい知らせが届きます。幼い頃世話になったゲーテが亡くなり、「バッハ復興運動」に協力してくれた知人も亡くなり、最初のピアノの先生ツェルターまでも亡くなってしまったのです。また、ロンドンでは成功していましたが、パリでの活動は市民と音楽性が合わなくなってしまいました。
ツェルターの跡を継ぐためにもベルリンに戻るメンデルスゾーンですが、そこではユダヤ人の迫害がまだ酷い状況でした。仕事も冷遇され、彼はベルリンを出て、3度目のロンドンに渡ることを決めました。
ロンドンでは『イタリア交響曲』を演奏し、またしても大好評。「後世に残る傑作だ」と絶賛され、ロンドンの聴衆にこれまでの心の傷を癒してもらえました。
このころ両親の援助を受けずに、独り立ちした状態で活動していたメンデルスゾーン。ロンドンから一度戻り、ドイツのデュッセルドルフで行われる「下ライン音楽祭」という演奏会に父親を招待しました。本番までの練習期間が短かったこの演奏会。しかし彼の抜群の指導力で演奏者から絶大な信頼を寄せられ、本番も見事成功を果たします。父親は息子が大勢の人間を束ねる「若き王」のような姿に大きな喜びを得ました。ベルリンでの冷遇からは想像もできないくらいの観客からの歓迎、演奏者からの信頼に、「まるで奇跡を見るようだ」と父親は言ったそうです。
またメンデルスゾーンはこれまでも多くの女性と付き合い、恋愛を楽しんでも来ましたが、結婚に対しては冷静に考えられる人でした。あまりに冷静で保守的だったため、姉弟から早く結婚しろと言われ、当時一番愛していたセシルという女性と結婚します。メンデルスゾーンは家庭という幸せな空間を知り、より仕事に精を出すようになりました。
そして彼はヨーロッパ一忙しい音楽家と言われるようになりました。彼は指揮者、作曲家だけでなく、ピアニスト、オルガン奏者、管理職などの社会活動も引き受け、すべて完璧にこなしていたのです。
作曲家としては、『スコットランド交響曲』という13年間に渡る着想から完成までの大作を完成させ、何度も歓迎された地イギリスで演奏しました。もちろん大成功し、彼はイギリスこそ自分の居場所だと確信したほどでした。
また彼はドイツ初の音楽学校を開設しました。そのニュースはドイツの国内外に知れ渡り、入学希望者が押し寄せてきたほどです。
様々な活躍をしてきたメンデルスゾーンですが、年を取り、衰えを感じてきたため引退することを考え始めます。公の場に出ることを控え、作曲に集中しようと思ったのです。
そして彼はこのとき、「自分は本当は人間嫌いで、音楽嫌い、指揮嫌い、公嫌いなのかもしれない。喜びを感じるのは作曲をしているときと、親しい友人と共に室内楽をしている時だけだ」と考えていたといいます。
しかしその後も指揮などの仕事はたくさん舞い込んできました。同時に作曲ももちろん行い、『エリア』という宗教を扱った長編の歌曲を発表し、名声が頂点に達していました。しかし疲れも頂点に達しており、彼は2度の卒中を起こしてしまいました。そして3度目の発作では意識が亡くなってしまい、一晩中叫び声をあげたり、作曲をしているかのようにハミングしたり、手で表紙を取ったりと、長年の多忙でしみこまれた動作を無意識に起こすだけでした。たまに意識が戻った時には「疲れた。とても疲れた」と答え、もう意識も戻らなくなり、妻のセシル、弟のパウル、世話になった偉大な音楽家モシェレスなどに見守られながら38歳のメンデルスゾーンは穏やかに死を迎えました。
彼の死の夜に行われるはずだった演奏会は中止になり、市民は悲しみの静寂が襲ったそうです。しかし彼の音楽は今現在もその美しさと輝かしさを奏でています。そしてこれからも彼の栄光は続いていくでしょう。
「メンデルスゾーン 美しくも厳しき人生」ひのまどか著 リブリオ出版