フランツ・シューベルト

フランツ・シューベルトの説明


歌曲の王と呼ばれるフランツ・シューベルト。彼はたくさんの詩と歌を融合させる新たな芸術を世の中に知らしめた人物でもあります。

フランツ・シューベルトの生涯

フランツ・シューベルトは、音楽の都ウィーンで生まれます。家族は母親と父親の他に14人の兄妹が居ましたが、当時は子供が病気もせずに成長するのは当たり前のことではなかったので無事に成人できたのはその中でもシューベルトを含む5人だけでした。

家族も多いことから、シューベルトの家庭はとても貧乏でした。しかし父親が学校を経営していたので彼らを学校に通わせることはできました。
やがて父親はシューベルトに音楽の才能があることに気が付きます。それは彼がちょうど6歳を迎える頃のことでした。彼には一般教育よりも音楽の勉強を優先させました。
彼はピアノとバイオリンの手ほどきを受け、8歳になるころにはその上達っぷりは驚くもので、他の兄弟や教えていた父親でさえも追い越してしまうほどに上手くなっていました。

父親は彼の音楽の才能をもっと伸ばそうと考え、近所の教会で聖歌隊の指揮を勤める人物にオルガン、声楽、和声法を教えてもらうように言います。その人物はシューベルトのレッスン後にこう言ったそうです。「この生徒には本当に舌を巻いた。わたしが新しいことを教えようとしても、シューベルトはすでに知っていた。実際にはレッスンすることはなにもなく、教師のはずのわたしは驚きながら静かに見守るばかりだった」と。

そして1808年、11歳のシューベルトは帝室王立の学校であるコンビクトで学ぶための超難関試験にも合格します。この学校は少年合唱団員のための学校であるだけでなく、大学の予備校としても機能していた学校です。
そしてこのコンビクトで彼は音楽家への道を歩み始めることになります。

入学から2年後、シューベルトは少年オーケストラのリーダーにまで選ばれます。名誉なことでもあり、同時にそのオーケストラの指揮を代理としてつとめることもできる権利を得たシューベルトは、そこで自作の曲を演奏できることからも、とても大きな喜びとしてリーダーを勤めました。

しかしシューベルトは、口数の少ない、内向的な少年だったといわれています。友人たちと出かけるときも自分の世界にひたり、頭のなかで曲作りをしていたそう。友人の一人は「感情をあまり表には出さず、微笑みを浮かべることはあっても、声をあげて笑うことはえったになかった」と語るほどだったそうです。
読書が好きだった彼は詩や文学作品を読み漁り、同年代の友人には理解が追いつかないほどに熱中していたそうです。そして気にいった詩があればノートに書き留め、このころから歌曲の作曲に取り掛かっていました。

1813年、彼はコンビクトを去ることを決心します。そこでの生活は彼は「牢獄」と例えるほどに、粗末な食事、時間の拘束が厳しかったのです。それになりより音楽に自分の音楽に打ち込める時間が少なかったのが決定的でした。

彼はウィーンに帰り、父親に期待されていた教員として研修も始めました。もちろんその間も作曲活動をさせてもらうという条件付きです。
作曲家としてのシューベルトはコンビクトの生活にも耐えられるほどに根気強かったのですが、教師としてはその真逆でした。それは生徒たちへの授業の間にも作曲をするほどです。
彼は低学年を受け持っていたのですが、幼い子供たちの騒ぐなかでも作曲ができるというのは、ある意味では彼の才能ともいえるでしょう。

そんな教師の仕事をしながらも、彼はソプラノ歌手に恋をしたりして17歳の年齢になっていました。
この時点で彼の作品はすでに60作品を超え、2つの交響曲、50の歌曲、6つの弦楽四重奏曲、ほかにも教会音楽やピアノソナタなどもたくさん作りました。

そもそも歌曲とは、詩とメロディーとひとつの作品として溶け合わせたもので、昔からその形式はありましたがそれを最高の芸術として押し上げたのはシューベルトが初めてでした。歌詞は主にゲーテやシラーというドイツ人の有名な作詞家の物をつくりました。
その詩に寄り添わせるピアノ伴奏は、単なる伴奏にはとどまらず、心の描写までをも組み込ませました。こうした伴奏に描写を組み入れるのは彼が初めて創造した表現方法です。

そして1814年、シューベルトの歌曲の最高傑作『糸をつむぐグレートヒェン』が作曲されます。ゲーテの簡潔で力強い詩に、悲しくも美しいメロディー、糸車の回転を描写するピアノ伴奏。この3つが完璧に溶け合い、素晴らしい音楽を作り出したのです。
このように音楽で感情や描写を表現するのは、彼の次の世代の音楽家に引き継がれていきます。現代ではロマン派と呼ばれる、文字通りロマンチックな音楽のジャンル・時代が彼ののちに続いていくのです。なのでシューベルトが当時作曲をしなかったら、今のようなクラシック音楽の発展ではなかったとも考えられるでしょう。

この翌年、あの有名な『魔王』という歌曲も作られます。ゲーテの詩をもとにした、子供を抱いた男に森の魔王が誘惑のささやきをする曲です。彼自身はこの曲のピアノ伴奏を問題なく弾けましたが、ほかの演奏者に任せると前奏部分の音の数を省略して弾かれてしまいました。その理由はあまりにもそれが難易度が高かったからです。

すでに歌曲の第一人者として名をとどろかせたシューベルトですが、似たように歌と音楽で作られるオペラの分野ではまったく名を売ることができませんでした。全部で19曲のオペラの制作にとりかかりますが、そのうち上演できたものはたったの3曲だけでした。しかも新聞には「全体として工夫が足りない。長くて退屈だし面白みに欠ける。伴奏はうるさすぎるし、合唱はぼやけている」と批評が書かれる始末でした。

オペラでは世間から認められませんでしたが、歌曲ではどんどんと人気を高めていきます。1821年、『魔王』の楽譜が出版されることになったのです。その発表は音楽会の席で行われ、その夜集まっていた人々は楽譜に突進するようにしてそれを求めました。なんとその一晩で百部近くが売れるという、大盛況でした。
その後も他の12曲を新たに出版し、どれも好評で売れます。お金の少なかった彼はこれを資金源にして、作曲活動をより進めていきます。

そんななか、彼の傑作のひとつである『未完成交響曲』も作られていきます。なぜこれが未完成なのか。それは彼の体が病気に苛まれ始めたから、もしくは他の仕事が忙しかったからと、真相は分かっていません。

1822年から一年間、彼は腸チフスという病気に苦しみます。しかしその体調不良の中でも彼は作曲を続けました。
憂鬱な状態のなか、彼の3大歌曲の1作目『美しい水車小屋の娘』の作曲も始まります。この曲は友人の家を訪ねた際、テーブルの上にあったミュラー作の『美しい水車小屋の娘』の詩集があるのに気づき、彼はそれを友人に黙って持ち帰り、1週間で歌曲集として『美しい水車小屋の娘』を全曲の完成をさせてしまいました。

作曲の腕と速さは衰えないシューベルトですが、病気はどんどん進行していきます。しかしウィーンの地では彼の名声は高まりつつあり、楽譜の出版も多く行われました。とはいえその収入は低く、名前が知られてきたとはいえまだ大作曲家として認められているわけではありませんでした。

1827年、同じ地で偉大な作曲家として讃えられ、シューベルト自身も長年尊敬の的にしているベートーヴェンが瀕死で床にふせっていいるという知らせを受け、彼を見舞いに行きます。しかし内気な性格のため、ベートーヴェンと言葉を交わすことはできませんでした。シューベルトは彼を静かに見守り、そして亡くなったあとの葬儀では松明持ちの役割を貰って参列しました。

偉大な音楽に先立たれたあとも、シューベルトは精力的に作曲を続けます。しかし体調の方はまずます衰えるばかり。そんななか1827年の3月、最初で最後の自作発表演奏会を開きます。自分の音楽を世界に広めようとしたのです。この発表会は立ち見客がでるほどに大盛況でした。どの作品も熱烈な喝采をあび、シューベルトは何度も舞台上に引っ張り出されました。収入面でも大成功し、いままでは少ない給料で音楽活動をしていましたが、この一晩の演奏会でやっと実力に見合った額を手に入れることができたのです。

しかしシューベルトの体は弱るばかりで、演奏の招待の知らせを受けてもそこに向かうことができなくなってしまうようになりました。1828年11月、ついに寝たきりになってしまい、意識もほとんどなくなってしまいます。そして11月19日、「ここが私の最後」という言葉を残してこの世を去りました。まだ31歳という若さでした。

シューベルトの死後、親族は彼が残したものを整理していたところ、たくさんの未払いの請求書がでてきました。歌曲という音楽ジャンルを築いた彼でしたが、その対価は当時はまったくもらえていなかったのです。
しかし今の時代でもシューベルトの歌曲を中心とした音楽は人々の心を揺さぶり、素晴らしい演奏会のためにその音楽の力を発揮しています。そしてそれはこれからも続いていくことでしょう。

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