フランツ・ヨーゼフ・ハイドン

フランツ・ヨーゼフ・ハイドンの説明


たくさんの交響曲を書いた作曲家、フランツ・ヨーゼフ・ハイドン。彼は誰かに仕えながらの音楽活動に捕らわれながらも、自分の音楽を世の中に知らしめていきました。

フランツ・ヨーゼフ・ハイドンの生涯


ハイドンは1732年にオーストリアのローラウという地に生まれました。父親は作曲家で、母親は伯爵の家で料理を担当していた人でした。ハイドンの兄弟は12人はいたのですが、半数は小さい頃に亡くなってしまい、生き残ることができたのはハイドンを含む6人だけでした。この兄弟はハイドンだけでなく、ヨハン・ミヒャエルやヨハン・エヴァンゲリストという兄妹も音楽家になりました。
ハイドンが音楽に目覚めたのも早く、5歳の頃には父親のハープの演奏を好んで聴き、自分でもそのメロディーを歌うほどだったそうです。

そして6歳の頃、ハイドンの歌声を来た学校の先生、マティアス・フランクは両親に音楽の勉強も任せてほしいと言いました。ハイドンはフランクから読み書きだけでなく、歌や弦楽器、管楽器、ティンパニーという打楽器までをも教わりました。

その2年後、音楽の都ウィーンの聖ステファン大聖堂の合唱隊にはいれることになります。まだ幼いハイドンでしたが、難しい「トリル」という音を細かく上下に揺らすテクニックを披露したことが、合唱隊入隊の決め手でした。
8歳にして音楽の中心地でもあるウィーンの地で活躍をし始めたハイドンですが、それも長くは続きませんでした。17歳の時、声変わりをきっかけにその合唱団をクビにされてしまったのです。

その後、彼は知人のツテを借りて家を借りることができ、自分自身の音楽活動に没頭し始めます。教会で歌ったり、パイプオルガンを演奏したり、舞踏会などでバイオリンを弾いたり、レッスンをしたりしました。
そうした生活をしながら、彼はフェルンブルクという名前の男爵によって作られた「室内楽」の組織と関係を持つようになります。室内楽とは、文字通り室内で演奏するのに特化した、少人数での演奏編成のことです。そしてこのフェルンブルク男爵との縁のおかげでモルツィンという伯爵のおかかえの楽長に選んでもらえることになったのです。そしてこのとき今でも有名な『交響曲第1番 ニ短調』を書いたと言われています。
定職につけたと思ったハイドンですが、モルツィン伯爵の家のお金がなくなっていき、仕えている音楽家たちを解雇しなければならなくなってしまいました。
しかしハイドンには次の縁も待っていました。アントン・エステルハージ侯爵のお抱えの音楽家になることが決まったのです。このエステルハージ家は長い歴史を持ち、国中でもっとも裕福な一族でした。そしてハイドンは29歳になる1761年、エステルハージ家に仕えるという契約を結びました。
しかしこの契約を結んですぐ、アントン・エステルハージ侯爵はハイドンの音楽をほとんど聞けずに亡くなってしまいます。ですが契約は続いているため、アントンの息子であり後継ぎのニコラウスにハイドンは音楽を捧げていくことになりました。しかもその期間は28年間に渡ります。

ハイドンはニコラウス・エステルハージのもとでたくさんの作曲をしました。1761年から4年間で20曲ほどの交響曲や声楽曲、器楽曲を作曲し、その多忙さは『ホルン協奏曲 ニ長調』の直筆の楽譜が眠りながら書いたあとがあることからも伺えます。

エステルハージ家での作曲は、給料は良かったのですが、決まりなどが多く自由ではない、縛られた環境でした。
その環境に堪えられなかったお抱えの楽団員は、楽団の代表者であるハイドンにどうにかしてほしいと頼みました。そしてハイドンは1つの交響曲を作りました。その曲は楽器が一つずつ沈黙していくように書かれたのです。自分のパートが終わったら譜面台の灯りを消して、楽器を抱えて退出していくという、まるで現代曲のような演出付きの曲を考え付いたのです。この演奏は実際に行われ、ニコラウス・エステルハージ伯爵や居合わせた人々はこの演奏の意図を読み取ったそうです。またこの曲は今でも『告別交響曲』として有名です。

その後、ニコラウス・エステルハージ侯爵が亡くなってしまい、ハイドンはエステルハージ家の外で活躍することが増えました。
しかし長い間エステルハージ家で活動をしていたため、自分の名前と作品がどの程度知られているのかをハイドン自身はほとんど気付いていませんでした。しかし当時の楽譜の出版社の記録からは、ハイドンの作品はかなりの数が出回り、演奏会にも使われていたのです。
最初はこの出版についてハイドンはほとんど利益を得ていなかったのですが、1780年頃、2つの出版社と契約を結んだりとして利益を上げていきました。

また1781年、ハイドンは25歳のモーツァルトに出会います。モーツァルトはハイドンの作品も知っており、自分の作品にも取り入れるほどでしたが、ハイドンはモーツァルトのことをあまり知りませんでした。しかし彼ら2人の友情はモーツァルトが若くして亡くなる1791年まで続きます。モーツァルトの死をハイドンは忘れることができず、彼の死後15年が経ったときにでさえ彼の話をするときは涙を流していたそうです。

そしてハイドンはイギリスのロンドンに行き、何度も演奏会で大成功を収めたりもしていました。彼はこのイギリスでの日々を、生涯で一番幸せな日々だったと言っています。たくさんの人から敬われ、感心され、そして収入も得ることができたのです。

そしてオーストリアのウィーンに戻ったハイドンは彼の代表作にもなる『天地創造』の作曲を始めます。彼はこれを「全世界の視線を自分の上に釘付け」して作曲をしました。この曲の初演にはウィーン中の人々が集まるほどで、警察の大部隊も動員するほどの人の多さだったといいます。この大成功の演奏会は2週間開かれ、客席は満員、大興奮の聴衆たちだったそうです。またハイドンはこの間にも『トランペット協奏曲』や『オーストリア国歌』など、いくつもの作曲をしていました。

『天地創造』で大成功したハイドンの名前はヨーロッパ中に広がり、様々な名誉を獲得していきました。ハイドンの生まれの国オーストリアと戦争していたフランスでさえも、ハイドンの音楽の名誉を称えてメダルを贈ったほどです。

しかしハイドンももう年老いてきていました。76歳になる1808年、『天地創造』の演奏会への出席を最後に、彼が公の場に出ることは亡くなってしまいます。この最後の演奏会、ハイドンはエステルハージ伯爵の夫人と、フランス大使のそばに席が設けられ、有名音楽家のサリエリが演奏の指揮をし、客席にはベートーヴェンやフンメルといった偉大な音楽家もいました。ハイドンはあまりにも感動しすぎてしまい、体調の悪化が懸念されたので途中退出しなければならないほどでした。その場にいた誰もが、この時がハイドンとの一生の別れだと悟ったといいます。客席にいたベートーヴェンは人込みをかきわけハイドンの前に跪いて、彼の手と額に思いを込めたキスをしました。ハイドンも客席の誰もに感謝を伝え、視線と手を天に上げ、涙をこぼしたといいます。

ハイドンはその演奏会後、1年間生きることができましたが、オーストリアとフランスの戦争が再び起こってしまい、フランス軍がウィーンに攻めてきました。そしてハイドンの庭にまでも散弾が落下し、このショックから回復することはありませんでした。しかし一度、敵軍のフランス軍のある士官が訪れ、『天地創造』の歌を一曲歌ってくれたのです。ハイドンにはこれが最後の喜びとなりました。1809年5月26日、ハイドンは『オーストリア皇帝賛歌』を3度弾き、その後息を引き取りました。

侯爵家に何十年も仕えながらも、ヨーロッパ中を虜にしたハイドン。彼は偉大な音楽家たちからも、一般市民からも愛され、そして今もなお彼自身も彼の音楽も多くの人々に愛されています。

「不滅の大作曲家 ハイドン」 マルク・ヴィニャル著  岩見至 訳 音楽之友社

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