フランツ・リスト

フランツ・リストの説明


ピアノの魔術師と呼ばれ、聖職者にもなったフランツ・リスト。

フランツ・リストの生涯


彼は1811年10月22日に現在のオーストリアの地で生まれました。とても田舎な場所で、大きな道もなかったほどです。彼の父親も音楽家で、また、その地の一番偉い人として領地をまとめる役職についていました。父親は音楽面ではチェロ奏者をしていましたが、ピアノをリストに教えました。その時リストは6歳だったといわれています。

彼はやがて即興で演奏をし始めたり、自分の作った旋律をメモに残すようになりました。まだ幼いにもかかわらず、とその才能は瞬く間に広まり、1820年初めて演奏会に出演することになりました。

音楽の勉強はとてもできたのですが、一般的な読み、書き、計算以外はまったく学んでいなかったそうです。また、彼は音楽だけでなく、小さい頃から宗教にも関心を持つようになっていました。

しかし11歳になるころ、彼は音楽の都であるウィーンで演奏会を開き、デビューを果たします。聴衆は歓声をあげ、彼の才能がヨーロッパ中に広まるほどでした。

そしてその後パリに移り、作曲を本格的に学びます。また13歳でフランスの地方とイギリスでも演奏会を開き、こちらも大成功。彼のひらく演奏会はいつでも大盛況でした。同じ年にははじめてオペラも作り、演奏面でも作曲面でも彼の才能はすでに大きく開かれていました。
15歳では今でも有名でたくさん弾かれる『12の課題による練習曲集』を作曲します。

しかし再びイギリスに演奏旅行にいった際、無理が重なり心も体も疲れてしまいました。何度も旅行することや、自分をさらしものように扱われることに空しさも感じていたようです。そんなとき彼は教会に行き、慰めを求めました。毎日礼拝に訪れ、何時間も聖書を読んだそうです。

そんなか彼は再びパリに戻り、まだ17歳の青年でしたが、ピアノのレッスンを始めることにします。父親が急に亡くなってしまい、悲しみを感じていましたが、レッスンの生徒である女性と恋に落ちます。しかし彼女の父親がその仲を猛反対。ショックを受けたリストはピアノのレッスンをやめてしまうほどでした。ふさぎ込んでしまい、人前に何か月も現れなかったので周りは彼が死んでしまったのだと勘違いし、彼の死を追悼する記事まで載ってしまったほどです。

しかしその悲しみも回復していき、1830年の年は読書に明け暮れます。それは、いままで勉強してこなかった、一般的な教養を身につけるためです。

そして翌年、彼の音楽人生にとっての大きな衝撃を受けます。ニコロ・パガニーニという超絶技巧を持ったヴァイオリン奏者の演奏を聞いたのです。彼はその演奏に強烈な刺激を受け、ピアノでもこんなふうに弾きたいと、演奏技術のさらなる磨きを決心したのです。演奏の目標となり、そして尊敬からリスト自身は『パガニーニの「ラ・カンパネラ」の主題による華麗なる大幻想曲』という現代でも難易度の高い曲として有名な作品を作りました。当時でもこの作品は「怪物のようだ」と語られたりして、技術的な面でも新しい芸当をたくさん含んだ、衝撃的な曲として知れ渡りました。

その後彼は25歳までの5年間、音楽の活動も多くなりますが、同時に女性との問題が多くなります。主には23歳のときに始まるマリー・ダグーという伯爵夫人との恋愛問題です。彼女は夫と家族を捨て、リストと共に生活をはじめ、リストの子供を産みますが、リスト自身は父親という役柄が性に合わなかったのです。マリーとの熱が冷めてきたリストは、再び演奏家として活動を本格化させたくなりました。演奏家としての活動をすることによって、自分の自由を取り戻そうとしたのです。

そしてマリーと別れたリストは再び演奏会を開き、喝采を浴びます。パリで、ウィーンで、イタリアで、たくさんの演奏会を開き、どれも大成功でした。

そんな彼の成功の秘訣のひとつに、「芝居」という要素があります。つまり、ロマンチックな身振りや、豊かな表情、または晴れ晴れとした表情、そして手の動きなどといった、芝居めいたことを彼はしていました。この芝居は聴衆も期待したもので、むしろ演技というよりは、本物の動きだったそう。
彼が完全に音楽に没頭し、感情の赴くままに振舞うという行動が、彼自身の成功を導いたとも考えられるでしょう。

しかしそんな「ピアニストの王」とも呼ばれる栄光は20年続きましたが、1868年、57歳になる彼は自分自身の決断によって、ヴィルトゥオーゾな演奏家をやめてしまいます。ヴィルトゥオーゾとは彼の場合、華やかで超絶技巧ばかりを魅せることです。彼はのちにこう記しています。「伝説的な成功を収め、世間からもてはやされた演奏家が、突然その経歴を中断し、そして2度と再開しないのだ。しかも、名声の絶頂での引退である。これから先はめったに演奏を披露しないだろうし、演奏会を引き受けることもないだろう」と。
どうして突然、華やかな演奏家の道を絶ってしまったのか。いまでは憶測しかできませんが、きっと有名になりすぎたがゆえに、表彰や色恋沙汰にうんざりしたのではないかと考えられています。また、超絶技巧の作品は多く作曲してきましたが、それとはまた違う、芸術としてとても大きな意味をもたせる作品を作りたいと考えたと思われています。

そうしたヴィルトゥオーゾ的演奏家をきっぱりやめてしまう数年前から、彼は宗教音楽を作り始めていました。たとえば48歳の時は『キリスト』、54歳の時は『聖エリザベートの伝説』、56歳の頃には『ハンガリー戴冠ミサ曲』などです。
50歳のころは指揮やレッスンをしていましたが、53歳の頃にはついに聖職者になりました。

とはいえ弟子をとったり、母が亡くなったりと忙しくしていましたが、彼の日常は単調なものでした。毎年2千通の手紙を書いたり、酒を飲んだり。弟子を取る際は、彼は無料でレッスンを行っていたため、その人数はどんどん増えていきました。そして大勢の弟子のために時間と精力を費やしたのです。

ヴィルトゥオーゾ的演奏家をやめると彼は言いましたが、その後も宗教音楽の発表のために何度か演奏会を開きます。そしてその演奏会ももちろんすべて大成功。彼は栄光と賛美と死ぬまで受け続けていました。
また、彼は少なくとも17の名誉称号を貰っていました。オーストリア、ドイツ、イタリア、スイス、フランスの各国で貰ったのです。

そんな彼も70歳になると健康状態が悪くなってきます。自宅の階段から落ちてしまったのが原因で、それはさらに悪化していくことになりました。
白内障との診断も受けてしまいますが、リストは音楽を求め発熱と咳の発作があったにも関わらず186年の7月23日にワーグナー作曲の楽劇『パルジファル』、25日には同じくワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』を観にいき、その後ずっと床にふせてしまいます。3日後、重い肺炎と診断され、面会謝絶にまでなってしまいました。そして7月31日、75歳でリストはその生涯を閉じます。

死の間際まで音楽に触れあい、そして演奏をして歓声を起こしたリスト。今も昔も変わらず彼の音楽には人を惹きつける力があります。

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