フレデリック・ショパン

フレデリック・ショパンの説明


ポーランドに生まれ、ポーランドを愛し、世界中から愛された作曲家、フレデリック・ショパン

フレデリック・ショパンの生涯

彼は1810年3月1日にポーランドのジェラゾバ・ボーラという小さな村に生まれました。生まれこそ小さな村でしたが、すぐに首都であるワルシャワに引っ越します。父はフランス語の教師として学校に勤め、家庭も知的な雰囲気でショパンは育っていきました。

ショパンは小さい頃から音楽的な才能がありましたが、それは無理矢理な教育というわけではなく、母親から教わっていくうちにどんどんと上達していき、彼が6歳になるころには母親の腕に負けないくらいに上達しました。そして彼は60歳を超える街では有名な音楽家ジブニーに音楽を学ぶようになります。ジブニーはショパンに厳しく練習をさせますが、ショパンはさらに上達していき、楽譜の書き方も知らないうちから即興で作曲までするようになりました。今でも有名な『ポロネーズ ト短調』という曲はこの時期に作られたもので、彼が7歳の頃に作曲し、ジブニーが楽譜に書きそれを出版しました。
彼の音楽の才能はもはや生まれながらの物だったのです。

そんな彼が初めて公開のコンサートに出演したのはまだ8歳のときでした。
そのときの様子をワルシャワの新聞ではこう書かれています。「音楽の天才あらわる。ピアノの演奏技術は素晴らしく、難度の高い曲でも苦も無く、味わい深く弾きこなす。彼の年齢を考えあわせた時、その出来の素晴らしさは驚くほかない」と。

とはいえ、音楽以外の学問も身につける必要性を感じたショパンは、1823年に現代でいう高校にあたる学校に入学します。特別優秀というわけではなかったそうですが、品行方正で勤勉な学生として賞を受けたこともあるそうです。

そして一般的な学問を16歳で勉強し終え、その後はワルシャワの音楽院に入学し、音楽に専念することにしました。
彼の作曲は初期の頃からピアノを主な対象としていました。ピアノ以外に書いた曲はほとんど存在しないくらいです。ピアノという楽器が現代の物に近づいてきて、より表現豊かに演奏できるような楽器になったことが理由だと考えられます。そして彼はそんな新時代を切り開くピアノの可能性を広げるためにも、誰よりもピアノという楽器を理解し、美しさを導き出し、時には繊細で複雑な曲を生み出しました。
また、ショパンのピアノの作品は、他の作曲家も数多く生み出した中でももっともロマンチックな音楽だと言われています。そしてそんなロマンチックさと、ポーランドという国の歴史を反映したような、自由や独立、戦いを力強く表してもいます。

ショパンは19歳にしてすでに世間に認められるようになり、しだいに外国で勉強し活躍したいと重いようになりました。そして1829年の7月、音楽の都ウィーンに旅立ちます。そこで大きな演奏会などもこなし、ウィーンの街の人々も虜にしていきました。
しかし彼が外国を旅している最中、母国であるポーランドは危機に面していました。ロシア軍が攻め入り、ワルシャワが陥落したというニュースが彼にも届いたのです。有名な曲のひとつ『練習曲第12番 ハ短調』別名「革命」と呼ばれる曲は、この時の彼の感情を表していると言えるでしょう。

ショパンはフランスにも滞在しました。彼の容姿が華奢で青白く、美しい手を持ち、さらに優雅で物静かな21歳の若者だったため、社交の場で人気の存在にもなりました。
彼自身は、地味だけど上等な服装をするのが好きで、黒いジャケットにエナメルの革靴を身に着け、新鮮な花や美味しいワイン、香水を好んでいました。不安定な収入だったので贅沢はできませんでしたが、上流階級の聴衆にとけこむためにもそれらを身に着けていました。

ショパン自身は作曲に専念したかったのですが、収入のために家庭教師もしました。そして彼は才能のある生徒にしか教えない家庭教師、として有名でした。普段は物静かで、生徒の演奏に対しても忍耐強く付き合る彼でしたが、一方で下手な演奏をすると突然不機嫌にもなったりしました。気分屋のようにも見えるかもしれませんが、これには彼の冷静な外見のなかの、激しい感情をもつ人間としての表れだともいえます。
そんな感情は彼の音楽にも表れます。演奏と作曲の両方に、力と情熱、繊細さと優美さの融合を感じると当時の聴衆が言っていたほどです。

その後もたくさんの聴衆を惹き込み、23歳の1833年には収入もかなり増え、高級住宅街の豪華なアパートに引っ越しをします。

それから少しして、ショパンは恋に落ちます。相手は友人の妹。小さい頃に会ったきりでしたが、彼女はとても美しい女性に成長していたもので、彼はたちまち彼女に恋をしてしまいました。その女性はマリアといって、ピアノも上手でした。ショパンという若くて格好いいピアニストに好かれたとしても、彼女はショパンに甘えたりはしませんでした。そんな彼女に刺激を受けたショパンは、滞在していたパリを発つ前に彼女に曲を送ります。それが今でも有名な『ワルツ 変イ長調<別れ>』です。

音楽も恋も経験していくショパンですが、彼は小さい頃から体が弱かったのもあってだんだんと元気をなくしていきます。妹が肺結核で亡くなり、ショパンも同じ病気にかかってしまっていたのです。アパートに引きこもったままだったため、周りから「ショパンは死んだ」と噂されるほどでした。

血を吐いたりもして体調が悪くなっていくショパンでしたが、マリアとの手紙はまだ続いていました。彼はマリアの家族の元を訪れ、結婚を申し込みます。結果、受け入れてくれるのですが、彼女の母親がショパンの体を心配し、まずは健康に回復させること、と言って婚約状態でとどめておくことになりました。
とはいえ結婚の約束を契れた彼らでしたが、遠距離恋愛だったため時がたつにつれて手紙の内容が薄れていきます。しだいに手紙すら届かなくなり、マリアの家を訪ねたいという申し出も無視されてしまいました。彼は初めて彼女からもらった手紙と薔薇の入っていた封筒に思い出の品をまとめて入れ、「我が悲しみ」と書いてしまったそうです。

しかしそんな失恋後の間もなく、ジョルジュ・サンドという女性に出会います。当時の女性にしては珍しい活発な性格で、ショパンは最初そのような性格が合わなくて避けていたのですが、ある演奏会に招待してから一気に仲が深まります。そして正反対な性格の彼らは互いを刺激し合う両想いの恋人同士になりました。

音楽面でもまたまた大成功の演奏会が開かれました。そのとき批評家は「ショパンはシューベルトの声楽曲に匹敵する作品を、ピアノのために生み出した」と書いたほどです。
聴衆も大絶賛し、また演奏会を開いてほしいと声を挙げましたが、もう一度演奏会を行うまでに1年間の説得が必要でした。
このようなショパンの内気な性格の裏には、彼の作曲に対する激情が秘められていました。それは作曲をすればするほど、体力も精神力も消耗してしまうほどでした。
またショパンは育ちのいいワガママなおぼっちゃんでもありました。精神的なバランスが崩れてしまうと、ときには怒りを爆発させたりもしたそうです。

1844年、父親が亡くなったという知らせがショパンに届きます。この知らせはショパンの病気にさらに追い打ちをかけるように重くのしかかりました。
しかし体は弱っても、作曲にはこれまでどおり情熱を注ぎ、今でも最高傑作といわれる『ピアノ・ソナタ第3番 ロ短調』や『3つのマズルカ』などを作曲しました。

しかし37歳になったショパンは孤独で、体も悪く、自信も失っていました。恋人のサンドとも別れてしまい、それをきっかけに作曲への意欲も失ってしまいます。
最後に演奏会を開いてから6年が経っていましたが、友人たちのすすめでやっと演奏会の舞台にたつことを決心したショパン。その演奏会は異常なほど人気を呼び、チケットは非常に高値なのにたくさんの人が殺到して求めました。
ショパンは聴衆も自分自身も失望させてしまうのではないかと不安でしたが、その演奏会はおどろくほど素晴らしい出来で、彼が求め続けていた音楽を優雅に、そして鮮やかに表現できたのです。ショパンは疲労から楽屋に戻ったとたん倒れてしまいますが、聴衆は大歓声をあげ続けました。

演奏会の成功などにより、ショパンの生活は潤っていきました。しかし病気の進行は著しく、社交界の付き合いに疲れ果ててもいました。このときイギリスにいたショパンはたくさんの演奏会を開きましたが、体調によって直前でキャンセルしたりして、憂鬱な気分でいました。彼は自分のことを「壊れて音の出なくなった修理のできないピアノみたいだ」と例えたそうです。

1847年、彼は38歳でしたが疲労感と絶望感に満ちていました。かれの日記には小さく墓場のスケッチが描かれてもいました。

イギリスをでて、パリに向かったショパンでしたが、もうベッドからほとんど起き上がれないほどに弱っていました。ですが身だしなみを整える気力はまだ残っており、彼はいつもきちんとした服を身に着け、身づくろいも怠りはしませんでした。
しかし1849年の10月になると話すこともできなくなり、痛みから解放されたのはその約2週間後。午前2時に眠るようにして息を引き取った時でした。彼はまだ39歳と言う若さでした。

彼のピアノ曲は今でもたくさんの音楽家や、音楽家の卵に演奏され、そして絶賛されています。若くに亡くなってしまいましたが、今でも愛されているということをきっと天国で彼も喜んでいるのではないでしょうか。

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