モデスト・ペトローヴィチ・ムソルグスキー

モデスト・ペトローヴィチ・ムソルグスキーの説明


ムソルグスキーはロシア5人組として数えられる、有名な作曲家です。

モデスト・ペトローヴィチ・ムソルグスキーの生涯


彼、モデスト・ペトローヴィチ・ムソルグスキーは1839年3月21日にロシアのプスコフ州に生まれました。ムソルグスキー家は代々、伝統的に軍務についており、彼の父親は地主としての権力も持っていました。母親はその土地に暮らしていた人で、フランス語が話せたり、詩を書いたりピアノを弾いたりと教養のある人でした。母親の親戚にも軍人が多かったので、生まれた子供を軍人にするのが両親の夢でもありました。

ムソルグスキーをお世話した乳母はロシア語の民謡を彼に聞かせていました。その子守歌のような民謡を、彼は将来の音楽家として少なからず影響を受けていたと考えられます。
ピアノの演奏は母親のおかげで身近に聞いていました。父親も音楽が好きで、自分でも演奏するほどでした。
ムソルグスキーは乳母の話す昔話にあわせて即興で何かの曲をピアノで弾き、それを聞いた母親は彼の音楽の才能を感じ取り、音楽の基礎知識と技術を教え始めました。彼はどんどん才能を伸ばしていき、聴いただけで、楽譜も見ずに弾いてしまったりしたそうです。

こうした彼の音楽的な興味を、父親は複雑に感じていました。父親は息子を軍の上級の立場につけるように育てていたからです。
そこで進学先をエリート養成機関ペトロパヴロフスク学校に決め、音楽の勉強もでき、一般的な勉強もできるようにしました。

学校の近くに引っ越し、彼は勉強を進めていきました。しかし音楽教師がムソルグスキーの才能に気付けず、作曲や音楽理論などをまったく教えようとしませんでした。そのためムソルグスキーの音楽的な美意識などは彼自身がつくり、伝統や学校で教わるような規則とは関係なく育っていったのです。

しかし彼はそれでもピアノはとても上達し、学校の中では有名人でした。彼はその場で即興で弾くのが好きだったそうです。また彼は人付き合いがよく、親切な性格だったといわれています。休みの日には友達の家に遊びに行き、お祭りに参加したりもしていたそうです。

その後、彼は官吏になりますが、その生活が彼を苦しめました。また、お金もなくなっていきピアノの演奏をして稼ぐことになりました。しかしそのピアノ演奏はあくまでパーティーでの演奏など、彼自身が主役になるようなものではありませんでした。彼は音楽を真剣に向かい合っていたからこそ、それは屈辱だったそうです。

しかし彼にとてもいい出会いが訪れました。当時から有名だった若手の作曲家でありピアニストのドミトリー・バラキレフと知り合えたのです。ムソルグスキーはバラキレフに音楽のことを学び、作曲についての助言も受けました。
しかしバラキレフはとても厳しく、穏やかな性格のムソルグスキーでさえも逆らったほどでした。しかし仲が悪いわけではなく、むしろムソルグスキーはのちに「ぼんやりしている私を見事にたたき起こしてくださった」と残しているほどです。

そうして作曲に夢中になっていったムソルグスキーは、19歳になる1858年の夏に軍隊を抜けて音楽に集中しようと決意しました。
しかし軍隊と音楽を両立していた人はそれなりに居たため、彼の決意に周りは反対しました。ですがムソルグスキーはその反対を押し切ってその年のうちに軍隊を辞めてしまいました。
その後すぐに彼は重い病気にかかってしまいます。軍での仕事と、音楽の勉強、作曲活動による負担の結果、うつ状態になってしまったのです。

しかし軍を辞めた彼はより一層勉強に励みました。たくさんの本を読み、地理や宗教的な哲学、心理学に関心を持っていたそうです。

また作曲では明るい兆しが見えてきました。歌曲の『日の光もなく』『死の歌と踊り』が多くの人を魅惑したのです。彼の作風の特徴である暗さと、鬱々とした気分を作り出す低い音の使い方が彼の音楽の魅力になっていったのです。
ですがムソルグスキーという作曲家は、ただ暗い性格をした人というわけではありません。彼は素直で、優しく、繊細な性格だった言われています。

作曲家として成功しはじめてきた彼ですが、1862年に病気にかかってしまい、静かな場所で体を休めなくてはならなくなっていまいます。
ですがこのお休みは、彼にとっていい機会になりました。村のはずれを散歩したり、自然や哲学の本を読んだり、偉大な作曲家ベートーヴェンの曲から勉強をしたり、自分の曲の作曲に時間をあてることができたのです。
半年後には働くために街に戻り、作曲以外の仕事としてドイツ語とフランス語の翻訳をする仕事についたりもしました。

そんななか、1865年、母親が亡くなってしまったという連絡が届きます。彼は悲しみに暮れ、作曲する気持ちもなくなってしまい、食事もとれないほどでした。
ムソルグスキーの兄はそんな状態の彼に、一緒に住むことで傷ついた心を慰めようとしました。
そのおかげか、彼は作曲を再開することができ、『カリストラート』や『ホパック』といった有名な作品を書き上げられました。

1867年には作曲家のリムスキー・コルサコフとも知り合い、2人は性格や音楽の個性でお互いに刺激し合う、とてもいい仲になりました。2人とも若い頃に軍隊にはいっていたことや、音楽への熱い感情が似通っていたのです。

翌年、彼は『ボリス・ゴドノフ』というオペラを完成させます。これはプーシキンという詩人の演劇台本を基にしたものです。彼はこの時期とても創作意欲にあふれ、大作にも関わらず1年という短期間で完成されました。
また彼のオペラは未完成の物が多く、この『ボリス・ゴドノフ』は珍しく完成した作品なのです。

そして1874年、ハルトマンという画家の知り合いが亡くなってしまい、彼の遺作の展示を見に行く機会ができました。
そして生まれたのが、ムソルグスキーの代表曲でもある『展覧会の絵』です。
彼はこの曲を3週間で作曲し終え、とても創作意欲を書き堪えられながら書かれたといわれています。
この曲は当時とても珍しい作風で、ピアノのための曲でしたがまるでオペラのような演劇性や具体的な表現がされ、彼のやる気が満ち溢れた作品になりました。
ですがこの作品は彼が亡くなってから5年も経ってから発表されたため、彼が生きている間にはこの曲に魅了される人々の熱狂は伝わりませんでした。この作品は発表されるとたちまち観客や、他の作曲家、音楽家をも魅了しました。今でもこの曲は誰もが知っている名曲の一つになっています。

この後もムソルグスキーの創作意欲はどんどん増していきました。彼は芸術の役割をこう説きました。「芸術とは、目的ではなく、人々と語る手段である」と。

『展覧会の絵』を完成させた翌年、『死の歌と踊り』をテーマにした作品を書きます。これも今でも有名な曲で、彼はこの作品にタイトル通り、死をイメージして作曲されました。

こうして彼の代表作が作られていきますが、1877年、彼は再び不眠症と鬱状態に悩まされます。彼はなんの仕事をする気も起らなくなり、作曲にも手が付けられませんでした。
しかし友人の力や、旅行にいったりするうちになんとか少しずつ回復することができました。
作曲もいくつか完成させますが、彼ももう年を取ってしまった体ということもあり、何度も発作を起こすようになっていました。さらにはお金がなく住んでいる所の家賃が払えなくなり、部屋を追い出されてしまい、そのタイミングで強い発作を起こしてしまい、昏睡状態に陥ったりもしてしまいました。
彼は意識不明の状態で病院に送られ、検査をしたところ、肝臓、心臓、脊髄に病気が見つかったのです。
彼の元にはたくさんの人がお見舞いに着ました。彼の作品を発表する演奏会でかかわった指揮者や歌手、作曲家や詩人たちがやってきて、彼を慰め、励ましていきました。
そのおかげもあって、いっとき回復し、なんとか歩けるようにはなりましたが、再び容態は悪化してしまいます。そして1881年3月28日、ムソルグスキーは42歳の若さでこの世を去りました。

彼の亡くなったあと、彼が作曲し当時は有名にはならなかった『禿山の一夜』という作品がディズニー映画『ファンタジア』に使われたりと、年を重ねるごとにその音楽が評価されていきました。彼の音楽はこれからも再評価され、そして愛されていくでしょう。

『ムソルグスキー その作品と生涯』アビゾワ著 伊集院俊隆 訳 新読書社

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