モーリス・ラヴェル

モーリス・ラヴェルの説明


モーリス・ラヴェルは『ボレロ』や『スペイン狂詩曲』、『展覧会の絵』のオーケストラ版を作ったりと有名な作曲家であり、また近年では同性愛者であったことが名言されるようになってきました。

モーリス・ラヴェルの生涯


ラヴェルは1875年にフランスのバスク地方の小さな村に生まれます。彼女の母親はスペイン語の民謡を歌い、父親は自動車やジェットコースターの設計をする仕事をする人で、音楽と文化を愛している人でもありました。音楽一家というわけではありませんでしたが、父親の音楽好きの影響でラヴェルも音楽に興味を持つようになったのです。

そして彼は7歳からピアノのレッスンをうけ、14歳の頃にパリ音楽院のオーディションを受けました。彼は入学の許可をもらえて、才能あるピアニストだと認められましたが、彼は授業をしょっちゅう遅刻したりよく気が散ってしまう生徒だったといいます。
教師のいない教室に颯爽と登場し、ピアノに向かい曲と歌詞が違うものを弾いてみせたりしていたともいわれています。

そんなラヴェルの現存する一番古い楽曲は『グロテスクなセレナード』というピアノ曲です。18歳のときにこれを作曲し、その後も数曲作り、23歳で彼の初めてのオーケストラ曲『シェヘラザード序曲』が作られました。
そして24歳になるころ、今でも有名な『亡き王女のためのパヴァーヌ』が完成されます。

その後も作曲のみならず政治に関わったりもしていたラヴェル。この時期の作品は特に同性愛者としての意図を音楽に織り込んだりもしています。特に『シェヘラザード』のうちの第3曲目『つれないひと』は男色を詠んだ中世アラビア詩の伝統にのっとった、美青年をうらやむ愛の抒情詩でした。友人たちはこの曲を自分は同性愛だということの控えめな告白だろうと感じていたそうです。

またラヴェルの人柄は「無関心と軽蔑に関する偉大な才能が賦与されている。しかし人を傷つける態度と、皮肉と、よそよそしさの裏側は、さらに偉大な気どりの才能がひそんでいる」といった皮肉交じりでも言われていました。長年音楽仲間として付き合っていたピアニストは「周囲にいる誰に対しても常に無関心にふるまう」と断言したほどです。

そんなラヴェルですが、彼の音楽はさらに深まっていきます。
33歳になる1908年、『スペイン狂詩曲』が作曲されました。もともとピアノの連弾用に書かれたものでしたが、翌年の2月にはオーケストラ用に編曲され、発表演奏が行われました。絵画のような要素をだすために作られた奇妙な曲として、その効果を発揮しながら聴衆を驚かせました。

翌年、ピアノ曲『夜のガスパール』という今も有名な曲を作曲し、これもまた魔術のような奇妙で不思議な曲として当時は驚かれました。この曲は『オンディーヌ』『絞首台』『スカルボ』の3曲からなるのですが、『オンディーヌ』は水の精を表していますが、『絞首台』では文字通り絞首台を描くような不吉な曲で、『スカルボ』では不吉な和音によって悪魔のような凶暴さが描かれる作品です。

そんな強烈な曲をつくるラヴェルですが、1909年から作り始めたバレエ曲『ダフニスとクロエ』は「フランス音楽でもっとも素敵な音楽」と有名作曲家ストラヴィンスキーに言われるほどのものも作りました。

その後、第1次世界大戦がはじまったり、ラヴェル自身も赤痢という病気を患ったり、軍に就いたりして41歳の彼はしばし音楽を奪われてしまいます。音楽がない代わりに、自然を楽しむようになります。獣の皮にくるまって寝たり、森の獣のような毛皮の上着を着て写真に写ったりしました。彼はこの写真のことを「野獣になった私」と呼びました。鳥の鳴き声を書き留めたりもしていましたが、小さい頃から好んでいたおもちゃの兵隊で遊ぶことへの思い出にもひたり始めていました。

彼はおもちゃの兵隊だけでなく、愉快なミニチュアのオブジェを好んだりもしました。例えば機械仕掛けの動いたり歌ったりする小鳥や、ハンドルを回すと動く船のおもちゃなどです。また猫も好きで、3匹の猫を飼ったりもしていました。

彼自身についてのこととして、ベートーヴェンが嫌いだったという逸話も残っています。1920年代後半の演奏会で、あるチェロ奏者がベートヴェンのプログラムを弾いたのですが、ラヴェルは早口でまくしたてて小言をいったという話も残っています。

ややひねくれた性格をしていたラヴェルですが、彼の音楽の名声は高まっていく一方でした。
46歳のとき『ヴァイオリンとチェロのためのソナタ』という彼の才能が発揮される曲を浮くりました。彼はチェロに「ひじょうに機械的なウサギ」のように弓を跳ねさせ、快活な音を出すようにと要求します。それだけでなく、音色の多彩さを求めるような楽譜で、演奏者は苦労しますがうまく演奏できればそれは楽器の固有のサウンドを引き立てるものになるものでした。

その後、1926年から彼は今度は『ヴァイオリンとピアノのためのソナタ』を5年かけて作曲することになりました。ラヴェルの最後の室内楽作品となるこの曲は、第1楽章は『アレグロ』と一般的に始まりますが第2楽章ではまさかの『ブルース』、終楽章では『無窮動・アレグロ』といった具合に、ラヴェルらしいともいえる型破りな作品でした。ブルースはアメリカで生まれたジャンルのものです。無窮動とは、曲でそれを例えるならばリムスキー・コルサコフの『熊蜂の飛行』に似たもので、とにかく速く密集した音楽作風です。
この曲の初めての演奏の時、ルーマニア人のヴァイオリニストが『ブルース』の楽章を国の対立的な意味も含めて気に入らず、演奏会後の乾杯の場に現れなかったりもしました。

そしてさらに彼の名曲は生まれます。1928年、53歳の彼は『ボレロ』を作曲しました。この曲は当時から大ヒットでした。曲は単純に転調していくように聞こえますが、その転調が何度も何度も行われ、それが深まるごとにオーケストラという楽器の大群の魅力が引き立てられる構想になっていました。
この『ボレロ』は彼が55歳になる1930年にレコードに録音もされました。

この録音の年以降、彼は体の調子が悪くなっていきました。手のコントロールがきかなくなったり、日常で使う言葉や親しい人の名前を思い出せなくなります。
しかし彼の名声はピークに達しており、ジャーナリストたちからはインタビューの催促が相変わらずたくさん来ていました。しかしそれに答えることはできず、彼の体調はさらに悪化していきます。
時には店の従業員に「あなたは私のおかあさんか?」といったりするほどでした。
友人たちは彼の健康を心配し、気晴らしにとスペインとモロッコに旅行に連れて行きました。その旅行先で彼が作った『ボレロ』を口笛で吹く人に遭遇したりもしました。

1937年、彼が亡くなる年です。彼は会話もできないほど衰弱していました。しかしこんなエピソードが残っています。彼が作った『ダフニスのクロエ』が上演される演奏会にたちあったものの、帰りのタクシーで涙をこぼしながら「言いたいことがたくさんあるのに、何も喋ることができない」と語ったのです。
彼は脳の手術を受けることになりました。彼はその時「俺の首を切り落とすんだろう」と言いました。
彼は手術後、意識を回復させましたが、弟に会いたい、と言ったきり昏睡状態になってしまいました。そしてその9日後、1937年12月28日に62歳で亡くなりました。

彼の作った曲は時に衝撃的に、しかし新たな革命をもたらすものとして音楽界に貢献しました。今までも、そしてこれからも、彼の作った不思議で魅力的な音楽はたくさんの人たちを魅了し続けるでしょう。

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