ヨハネス・ブラームスの説明
ヨハネス・ブラームスはドイツのハンブルグに生まれた作曲家であり、ピアニストであり、指揮者でもある人物です。
ヨハネス・ブラームスの生涯
彼の家族の中では父親が音楽家で、コントラバスやホルンを演奏していました。
ブラームスは1833年5月7日に生まれ、ひとりの姉がいました。ブラームスはとてもおとなしく、顔は青白く、弱々しい体つきをしていたそうです。音楽を聞くのとても好きで、ピアノ音を知った時にはそれに惚れこんでしまうくらいでした。もうひとつ、ブラームスは兵隊のおもちゃが大好きでした。17歳ころまでおもちゃの兵隊を並べて遊び、28歳のとき友人のお祝いの場ではそのおもちゃの兵隊をつかった軍事パレードを見せたりしました。大人になってもおもちゃの兵隊が大好きなブラームスでしたが、音楽の方も大好きだったので、小さい頃は父親の練習の音が聞こえてくるとそのおもちゃを置いて聞きに行き、そして奏でられる旋律を歌っていました。また、ブラームスは少年時代から自己流で楽譜を発明して、ときどき作曲もしてたといいます。
6歳の時に父親から音楽を学び、7歳でオットー・フリードリヒ・ヴィリバルト・コッセルにピアノを学ぶようになります。彼はとても上達が早く、10歳の時に初めて演奏会に出演しました。
その後ブラームスはエドヴァルト・マルクスゼンという音楽家に作曲の勉強と、実際に自分でも作ってみたりしていましたが、18歳のころ自己批判が強く、この時期の作品は彼自身の手によって捨てられてしまいます。
ですが10歳から始まった音楽家としての道は、最初は演奏家になるためにと努力していきましたが、次第に自分は音楽を創作したいんだという実感が確かなものになり、16歳のころからは演奏活動よりも創作活動をするようになっていました。
とはいえまだ演奏会に出ることもあったブラームス。ある日の演奏会のことです。会場のピアノが半音低く調律されているという事件に遭遇します。調律を直すには時間が必要なため、開演時間には間に合わないと判断しました。そして彼はなんと本番で全ての曲を半音上げて演奏することにしたのです。ブラームスの音楽の才能が発揮された一面です。
そんなブラームスですが、13歳のときから家計を助けるために酒場や料理店、ダンスホールなどで演奏するようになり、お店やお客から呼び出しがかかれば夜中であろうとすぐに出かけなければならない生活をしていました。それでも報酬はごくわずかで、煙草の煙や酒と埃で汚れた空気の中で何時間も演奏しなければならず、ブラームスにとって苦痛でした。
ブラームスが20歳のころ、偉大な作曲家シューマンが作った曲を研究していました。いままでどの作曲家に対しても抱かなかった共感を、シューマンの作品には感じ、彼に会いたいと思うようになります。そしてシューマンの家を訪ねたブラームス。あたたかく迎えられ、彼は自作の曲をひとつ演奏させてもらいました。シューマンは最初それを一人で聞いていましたが、その演奏に耳を傾けているうちに同じ演奏家でもある妻クララを読んで一緒に聞きました。ブラームスはシューマンに認められたのです。
ブラームスは音楽だけでなく、人柄までもシューマンに影響を受けました。ブラームスは明るい性格になり、コミュニケーションも弾むようになってきたのです。
この尊敬しているシューマンの妻、クララにブラームスは思いを寄せたりもしました。しかしブラームスはシューマンへの強い尊敬から、クララを取ることはせず、シューマンが亡くなりひとり残されたクララを結婚にさそうこともありませんでした。
そんなクララへ捧げたことのあるメロディーをつかい、ブラームスは『シューマンの主題による変奏曲』として作曲し、出版した後それをクララに再び捧げました。
しかしブラームスは自分の作曲の技巧の乏しさを痛感して、創作を辞めがちになっていました。
そんななか、彼は新たな恋が芽生えます。アガーテ・フォン・ジーボルトという歌の上手い女性に惹かれます。2週間ほど彼女と幸せな日々を送り、婚約まで行きましたが、翌年にそれはなかったことになってしまいます。ブラームスが彼女に「愛してはいるけど、束縛されるのは嫌だ」と手紙を送ったことが原因です。傷ついたアガーテは彼からもらった手紙なども捨ててしまい、今ではこの時代にブラームスがどんな活躍をしていたのか知る術もそれによって失われてしまいました。
1862年、彼が29歳になる年、音楽の都ウィーンを生活の拠点にすることを決めました。音楽が溢れているということだけでなく、内気なブラームスの性格が、静かで落ち着いたウィーンの街並みにあっていたからです。
それから3年後、長い間練っていた『ドイツ・レクイエム』という大曲を完成させるためにブラームスは作曲に精を出し始めます。作曲をしながらも演奏会を開いたりと、忙しい日常を送っていましたが、1867年、三楽章までを作り終え、それを演奏会で発表しました。しかしオーケストラの練習不足によってこの演奏会は失敗に終わってしまいます。ブラームスはそれでもあきらめることなく、オーケストラの練習を見守り、そして続きを書き進めます。そして3か月後、第5楽章を除いた全曲が再び演奏されることになります。今度は練習を重ねたことによって大成功を収め、荘厳さは場内にみなぎり、涙をながす聴衆もいたそうです。
この『ドイツ・レクイエム』はオーケストラと合唱、そしてソプラノとバリトン歌手の独唱による宗教曲です。華やかさをできるだけ避け、死によって悲しむ人々を慰めるという曲で、この曲の完成には結局10年以上かかったものですが、この曲には母親の死と、尊敬していたシューマンの死が込められていると考えられています。
大成功した『ドイツ・レクイエム』の発表でしたが、彼は豊かな生活が遅れていたわけではありませんでした。両親が生きていた頃は彼らにお金を送り、母親が死んだときは葬式代をだし、病弱な娘の治療費など、自分以外への出費が多かったのです。しかもブラームスは人助けや経済的援助をすることの多い心の優しい人物だったので、彼自身の生活はとてもきりつめたものでした。
しかし彼は『ドイツ・レクイエム』のおかげで有名になり、ウィーンで指揮者として活躍したり、オランダに旅行したりといろいろな経験を積むことができました。さらにその後演奏旅行などが続き、作曲面でも『交響曲第1番』など現在でも有名な曲が作られたりと、彼の名声はどんどん高まります。また彼が56歳になる1889年には蓄音機を使った史上初の録音を行ったりもした。このときの演奏でブラームスは自分の老いを感じ、作曲を断念することを考え、遺言まで書きました。
しかし彼はその後も曲を作ることができました。1891年、ある一人のクラリネット奏者の演奏に感激し、創作意欲を取り戻したのです。そして彼は『クラリネット三重奏曲』『クラリネット五重奏曲』『暗いネットソナタ』といったクラリネットの曲を多く作り出しました。
1890年には日本の琴の演奏も聞き、日本の民謡集の楽譜に書き込みも残されてもいました。
そんなブラームスでしたが、友人や知人、弟子たちがつぎつぎに亡くなる不幸が続き、さらには長い間文通などで親交を深めていたクララが亡くなったという知らせを受け、彼自身の体調も急激に悪くなっていきます。
意識があるうちは楽天的な様子を心掛け、朗らかな態度をとるようにすることができたブラームスですが、それは死への恐怖の裏返しだったとも考えられます。またこのとき彼は自分の手で篩手紙や未出版の作曲案を破り捨てました。自分の生活を覗かれることと、伝記作者に無責任に利用されたくなかったのです。
そして1897年、昏睡状態が多くなります。何度も眠り続けたり僅かに起きたりしていましたが、見舞いに来た知人に涙を流しながら「ありがとう」と声は出せず唇だけ動かして伝え、おだやかに息を引き取り63歳でその生涯が閉じられました。
彼のあたたかな心と、創作活動への熱意は作品にとても顕著に表れています。彼のことを知れる資料の多くは無くなってしまいましたが、残された名曲から彼の偉業は十分に伝わってくるでしょう。