ヨハン・ゼバスティアン・バッハ

ヨハン・セバスティアン・バッハの説明


ヨハン・ゼバスティアン・バッハは、18世紀にドイツで活躍した作曲家であり演奏家です。この時代の音楽のことを、「バロック音楽」と分類するのですが、このバロック音楽の歴史のなかでも重要な作曲家の一人なのがこのヨハン・ゼバスティアン・バッハです。このバッハが活躍をしたおかげで、現在のクラシックまで発展したといえるくらい、クラシック音楽の歴史の中で重要な作曲家です。
彼は曲を作るだけでなく、オルガンの演奏家としても人気で、その場で作曲して演奏をする「即興演奏」がとても素晴らしいとヨーロッパ中で有名な人物でした。

ヨハン・セバスティアン・バッハの生涯


バッハ一族は先祖代々音楽家で、なんとバッハが生まれるよりも200年前、つまり西暦1500年頃から音楽家として活躍していた一族なのです。セバスティアン・バッハが生まれる前から、バッハという名の音楽家を知らない者はいないというくらいに有名な音楽一族でした。

そんな音楽一族の子孫として、ヨハン・セバスティアン・バッハは1685年3月31日にドイツに生まれました。彼の子供の頃についての紹介もしたいところですが、一族が音楽に溢れすぎていたことから、音楽をすることは当たり前であり、才能があることも珍しいこととして扱わなかったので、彼についての子供の頃の記録は残念ながら全く残っていないのです。ですが、彼に8人の兄妹がいたこと、セバスティアン・バッハはその末っ子だったという記録はあります。
また、母親は彼が9歳のころに亡くなり、父親もその後再婚しましたが翌年に亡くなってしまいました。両親が他界してしまったセバスティアン・バッハは父親の兄にあたるヨハン・クリストフの家に引き取られ、そこで勉強をするために学校に転入学をします。
そして14歳の時にはすでにオルガンの曲と、今のピアノという楽器の祖先である「クラヴィーア」という楽器の曲を作りました。
15歳では学費を払わなくていい給費生として聖ミカエル学校の合唱団に転入をします。この合唱団に入れる条件は「生計の資をもたない貧しい子弟でかつ、よい声を有する者」でした。つまり、「貧しいけれど、良い声を持っている子供」ということです。
そこでオルガンや歌の演奏をしたり聞いたりして、バッハはさらに自分の中の音楽の質を高めていきました。また、この時にオーケストラのバイオリン弾きとしてアルバイトをしていたとも言われています。

そして18歳になるころには聖ミカエル学校を卒業し、就職をします。一番なりたかったのはオルガンの奏者だったのですが、それはいったん諦めて、バイオリン弾きとしてドイツのヴァイマール地方の、国王が住む宮殿で働くことにしました。
バイオリン奏者として働いてはいましたが、オルガン奏者が不在の時には代わりとしてバッハ自身がオルガンを弾いたりもしていました。

しかし同じ年に、バッハ家ゆかりの地に新しく教会が建ちました。そしてその教会のオルガンの試し弾きに、セバスティアン・バッハが選ばれたのです。聞きに来た人たちを驚かせるほどの名演奏をしたバッハは、その教会のオルガン奏者として働くことになりました。バッハの一番の夢だった職業につけたということです。
そしてその教会では聖歌隊の指導もしました。ですが、生徒が刃物を持ってきたり、授業中にボール投げをしていたりしていて、バッハは手に負えないといって聖歌隊の指導は辞めてしまいます。
指導を辞めてから、バッハは1か月のお休みを貰いました。そしてドイツの北の方にあるリューベックという町に、当時のオルガン奏者の有名人の一人だったディードリヒ・ブクステフーデの演奏を聞きに行きました。
もらった休みの期間は1か月間のはずでしたが、実際にバッハが教会に帰ったのは4か月後でした。
この休みの期間にバッハには、オルガン奏者の仕事や、結婚の誘いの話に振り回されていました。
いろいろな刺激を受けたバッハは、教会に戻ってから新たな演奏方法を実践してみたり、合唱隊の中に個人的な誘いでマリア・バルバラという女の子を参加させたり、予定より長い休みに加えて様々な問題を起こし、教会からの評価を下げられてしまいます。

とはいえ、バッハの音楽は相変わらず周りから高く評価されていました。
ミュールハウゼンという土地のオルガン奏者が亡くなったという知らせを受けて、それをバッハが引き継ぎます。その年が1706年なのですが、同じ年にマリア・バルバラという女性と結婚します。そう、この女性は先ほど紹介した、合唱隊に個人的に誘って参加させた、あの女性です。
22歳で結婚をしたバッハ。彼らの間には7人の子供が生まれ、その子供たちも後に有名な音楽家に育っていきました。

結婚から2年後、生活のためにお金を稼がなくてはいけないバッハは、以前にも働いていたヴァイマール地方に戻ります。そこで再び宮廷オルガン奏者として働き、作曲と演奏を数多くこなしていきます。現代でも多く残るオルガン曲は、この時期に書かれました。
たとえば「トッカータとフーガ」という、聞けば誰もが知っているようなオルガン曲もこの時期に作られました。暗めの曲調なので怖い印象を持たれがちですが、曲の出だしを過ぎ、音が速くなっていく箇所は、彼が生きた時代では珍しい作風でアッと驚かれるような曲でした。その時代に囚われない、自由で即興的な作風に、オルガンの音の特性を生かした重厚感のある響きの和音を並べた、バッハにしか作れない天才的な作品なのです。あの曲が教会で演奏されるのを想像してみてください。いま考えてみても、ちょっと異質で、衝撃を感じるのではないでしょうか。

この時期に起きたとある問題は、バッハの性格が伺えるものもあります
仕事をしながらも、旅行に出ることが許されていたバッハは、同じドイツのハレという地方に旅に出ました。そしてそこの聖母教会に置かれていたオルガンがとても性能の良いもので、しかも演奏の担当者が居なく、彼の試し弾きに魅了された教会の責任者がバッハをそのオルガンの担当奏者に任命しようとしました。バッハ自身も、こんなにいいオルガンが弾けるのなら……と、またまた転職をしようとします。ですが、肝心の給料がとても少なく、バッハはそれを断ることにしました。
バッハといえば、超真面目で堅苦しい性格だと思われがちなのですが、実際にはお金を気にするような普通の人の感覚を持った人だということがこのことから分かるでしょう。生活のためとはいえ、それなりに俗っぽい一面がバッハにもあったのです。
また、バッハの意外な一面として、こんな話も残っています。
当時、新しく教会にオルガンが建てられると、バッハを試し弾きの奏者として招くことが多くあったそうです。バッハはオルガンの音をひとつひとつ鳴らし、「丈夫な肺を持っているかを確かめなければならない」と冗談をよく言っていたと伝えられています。オルガンは空気を送って音を出す楽器なので、その楽器の構造を人間の肺に例えたのです。バッハはこんな冗談を言うだけでなく、その場でメロディーを作り、それをどんどん発展させていき、休むことなく2時間も弾き続けていたりしたそう。

そんなバッハは29歳になり「宮廷楽師長」という役職に就きました。これはその宮廷の専属の演奏家を取りまとめる2番偉い人になったということです。現代でいう副社長みたいなものですね。
そんな偉い役職になれたのですが、バッハはまたしても転職を考え始めます。その理由は、自分より偉い楽長である人物が亡くなったのに、自分をその後任にしてくれなかった領主への不満でした。バッハ自身も役職としては偉い人でしたが、この時代は音楽家というのはその土地の領主に雇われて活躍していました。雇われている身とはいえ、選ばれるべき立場なのに選ばれなかったことにバッハは不満を感じたのです。このことがあり、バッハはこの職を辞めます。

次にバッハが活躍をしたのは、ケーテンという土地の宮廷の楽長としてです。前回就けなかった役職に就くこともできて、さらに給料も良く、バッハにとってとても生活のしやすい環境でした。
この時に書かれた曲で有名なのが「ブランデンブルク協奏曲」や「平均律クラヴィーア曲集」です。
「ブランデンブルグ協奏曲」は弦楽器によって演奏される曲で、バロック時代の頂点の作品とも言われます。当時の技術や音楽の豊かさ、そして未来の音楽家への影響をとても与えた作品です。
「平均律クラヴィーア曲集」は、今のピアノの練習やレッスンにもよく使われる曲です。ピアノを習ったことがある人はこの曲名を聞いたことがあるのではないでしょうか。
このケーテンの地でバッハは生涯の内でももっとも幸せに、平穏に暮らしていたのですが、バッハ35歳である1720年、彼の旅行中に妻が突然亡くなってしまいます。バッハが帰るころには彼女はすでに墓の中にはいっていました。
悲しみに暮れたバッハは、翌年に再婚することを決めます。その相手は、宮廷の歌手アンナ・マクダレーナ・ヴィルケです。バッハはこのアンナのことも愛し、彼女のために曲を作ったりもしました。アンナ自身もバッハの仕事を助け、現代でバッハが作曲したのか不明であるとされている作品の中には、アンナが作ったのではないかという可能性も挙げられています。
そんな音楽夫婦の間には、13人の子供たちが生まれます。ですが悲しいことに、この子供たちのうち多くが幼い頃に亡くなってしまいます。
悲しい出来事が続いてしまいますが、バッハの仕事の面ではどんどん成功していきます。各地を転々としたのち、生まれ故郷に戻り、その地の教会付きの学校の合唱長として27年間働くことになりました。この27年間というのは、バッハが亡くなる年までの月日です。
この長い期間のうちに、バッハは作曲を禁止させられたりもして音楽家として絶体絶命の状況におかれたりもしたのですが、彼の音楽を支えてくれる人々の方が多かったのもあり、彼はたくさんの曲を作りました。どのくらいたくさんかというと、彼の作曲人生のうちの半分以上がこの時に作られました。

様々な人たちにバッハの音楽の素晴らしさや、技術力の高さを見せ、順調に音楽人生を歩んでいたバッハでしたが、若い頃から暗い所で楽譜を書いていたため、視力に問題が出てき始めました。
しかも、64歳になる1749年の5月、脳卒中という突然の発作によって倒れてしまい、視力もそれと同時に悪くなり、ほとんど目が見えなくなってしまいました。
翌年、イギリスの有名な眼科医ジョン・テイラーがドイツ旅行に訪れたとき、バッハは彼に恃んで2度手術を受けます。テイラーは手術は成功したと発表しましたが、実際にはさらに悪化してしまっていました。
この2回の手術と、薬による治療によってバッハはどんどん体力を奪われてしまい、活動ができなくなってしまいます。
そして1750年の7月28日、妻や弟子に見守られながら、バッハは静かに息を引き取りました。

当時は偉大な音楽家として有名で人気でしたが、時代が進むにつれて「バッハの音楽は堅苦しくてつまらない」と言われるようになり、だんだんと作品も埋もれていってしまいます。
ですが近年、バッハの研究が進み、彼の音楽の素晴らしさや面白さ、当時の偉業を再認識されるようになってきました。
現代でもロック音楽にバッハの旋律が組み込まれることもあります。エレキギターや電子キーボードで新たな旋律に生まれ変わり、今の時代の音楽として人々に楽しんでもらえている様子は、きっとバッハも驚きそして喜ぶのではないでしょうか。

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