ラフマニノフの説明
ロシアの作曲家として今も人気のラフマニノフ。今では有名で絶賛される作曲家ですが、苦難の多い人生でした。
ラフマニノフの生涯
彼は1873年4月1日、ロシアのノヴゴロド州セミョノヴォという地に生まれました。父親は400年以上の歴史を誇る貴族で、一族は音楽の才能に長けていました。ひいおじいさんの代から合唱団とオーケストラを編成して活動していたり、作曲活動をしたりしていた音楽一族だったのです。
ラフマニノフ自身も幼いころから音楽に興味を持ち始め、ひいおじいさんはそんな孫と一緒にピアノを弾いたりしているうちに彼の才能に気付き始めます。
しかし両親の仲が悪く、家族がバラバラになってしまいました。この家庭の崩壊はラフマニノフに重くのしかかり、彼の性格にも影響したと考えられています。
しかしラフマニノフはペテルブルグ音楽院に入学することができ、そこで音楽の勉強をし始めました。並外れた才能を持っていた彼は授業を度々さぼりますが、成績はとても良く、その才能の高さからモスクワ音楽院に転校することにもなりました。しかしこの時、姉が病気になり亡くなってしまいます。家庭の崩壊に続き、姉の死というのはラフマニノフにとって絶大なショックでした。
しかし音楽の勉強は続きます。しかも、ズべレフという名の新しいピアノの先生がとても厳しかったのです。怠けることも、嘘をつくことも、言い逃れも、自慢をすることも許されず、朝6時からピアノを弾く日々を送っていました。日曜日には客を招いて習った作品を弾く機会もありました。そこでラフマニノフは何度もチャイコフスキーなど有名な音楽家の前で演奏を披露しました。
そして音楽院での勉強も再開しますが、1891年の春で卒業させてくれるように学校に頼みました。彼の能力を考慮してその頼みを同意します。卒業試験まで3週間という短い期間でしたが、課題になっていた数曲の賞品の演奏を素晴らしい出来で弾き、彼は卒業することができました。
そして19歳になる1892年、今でも有名な『ピアノ協奏曲第1番』が完成し、貴族会館の小ホールで演奏されることになりました。ラフマニノフ自身が指揮をふり、聴衆者はあっというまに魅了されてしまいました。この『ピアノ協奏曲第1番』から、彼の音楽の壮大さや広がり、美しい旋律、そういった彼の独自の音楽が世の中に知らしめられることになったのです。
そうして知名度は上がったラフマニノフですが、身分は定まっていませんでした。ペテルブルグ音楽院を優秀な成績で終了したので講師として招かれても良かったのですが、ラフマニノフ自身があまりに我が道をいく態度をとりすぎたことが原因でそれが叶わなかったのです。
しかし1893年ラフマニノフは『アレコ』という舞曲を上演し、これが大成功します。この成功に刺激され、作曲への気持ちが高まったラフマニノフは、その年の夏は特に打ち込んで作曲に取り掛かりました。二台ピアノのための幻想曲や、バイオリンとピアノのための小品を2曲、他にも合唱のための協奏曲が作られたりと、とても精力的に作曲活動がされました。
しかし同じ年、過去に彼に朝6時からピアノの練習をさせたりした厳しくも尊敬に値するピアノの先生、ズべレフが亡くなったのです。さらには同じロシア音楽家のチャイコフスキーも亡くなったという知らせが届きます。ラフマニノフは悲しみに暮れ、それをぶつけるように『偉大なる芸術家の思い出』という曲を書き始めました。
そしてその後も作曲活動とそれの発表演奏会は行われますが、やはり金銭的状態は不安定のままでした。そこでラフマニノフはマリンスキー女学校の音楽理論の教師になることにしました。この仕事に5年間就けば、兵役を免除されるということも、この仕事の決め手でした。女学校では合唱の伴奏をしたり、女性のための合唱曲を作ったりして、作曲活動は続けていました。
1895年、『交響曲第1番』が作曲され、友人や知人はこの曲を気に入りましたが、ラフマニノフ自身はあまり満足していませんでした。この曲は彼が存命中には1回だけ上演されたのですが、演奏自体が上手くなかったせいもあり、否定も肯定もされる評判でした。「新しい形式、でたらめな表現を追い求めて作った曲。民族性がない」といった否定と「新しい美、新しい主題、新しい形象を見つけたいという熱意、指向を多く秘めた作品だ」といった肯定的な意見が新聞に載り、ラフマニノフ自身もその演奏会がおわるやいなや、まっすぐに外に走り出し、その後モスクワへ去っていったほどでした。
精神的に落ち込み、とても仕事ができるような状態ではありませんでした。彼はこう残しています。「交響曲が演奏されるまでは、過大評価されていました。初めてそれが全部聞かれると、評判は根本的に変わってしまいました」彼はこの後3年間はなにも作曲できずにいました。
また彼は『回想録』でこう記しています。「生活がますます苦しくなりました。レッスンは少ししかありませんでした。それで、ピアニストとしての出演依頼を得ようとしましたが、たいしてありませんでした」どうにか2,3年間のあいだは暮らしていましたが、突然、オペラの第2指揮者として招かれたのです。そして1897年の10月から1898年の2月まで、30回ほどの上演の指揮を行いました。
その後、うつ病の悪化などから療養のために静かな場所に移ったりしたラフマニノフですが、この期間は創作力の蓄積と、自分の立ち場の見直しができた時間でもありました。療養の地で書いた『ピアノ協奏曲第2番』がそれを表しているとも言えます。天才的に祖国ロシアを描いたこの曲は、音楽的表現がとても高く、人々を感動させました。多くの音楽家たちがラフマニノフ変化にも気づきました。「ラフマニノフのなかで落ち着き、冷静さが優勢を占めるようになった」と評し、彼への印象を覆したのです。
そして彼は34歳になる1907年からロシアと外国でピアニストとしても指揮者としても頻繁に出演するようになります。ロシア音楽協会のモスクワ支部の幹部になり、音楽の監督官にもなり、音楽専門学校の授業を参観したり、生徒のコンサートを聞いたりして活動と運営を支えました。
その後、アメリカとカナダに演奏旅行に出かけたりして、そこでも大成功を遂げます。ロシアに戻ってもコンサート活動を続け、首都だけでなく様々な都市に出向いて音楽を披露しました。
1913年から1914年にかけても多くの演奏旅行をしましたが、途中第1次世界大戦のためにその計画は中止になってしまいます。
1918年、アメリカの音楽会社から契約を結んでほしいという申し出を受け、ラフマニノフは家族を連れてアメリカに行く決心をします。アメリカで温かく受けいられましたが、彼は思い上がったりはしませんでした。ピアニストという立場はまだ不安定だということを彼は理解していたのです。
とはいえその後の生活はわりと安定していました。冬はアメリカでコンサートを行い、春か秋はヨーロッパでコンサートに出演するという生活に落ち着いてきていたのです。娘や孫たちとも優しさをもって接して、幸せな時間を送っていました。
そして1934年、『パガニーニの主題によるラプソディ』が完成し、この曲をアメリカの国民は歓喜して受け入れました。その後パリで、ワルシャワで、ロンドンでその曲は演奏され、どこでも大成功しました。しかし彼は体の疲れや心臓と腕の痛みを感じ、指先の欠陥が破れたりもしていました。また、戦争によって予定が変わってしまったりと、その後の活動は変則的になりました。
さらに年を取るにつれ体の具合は悪くなりましたが、それによってコンサート活動を辞めなければいけないと考える方が彼にとっては気分が落ち込みました。「コンサートは私の唯一の楽しみです。もしそれを私から奪ったら、私は死んでしまいます」といったほどでした。
そして1943年、アメリカ合衆国の市民権を得た年の演奏会では、彼の様子はいつにもまして辛そうに見えたそうです。病院に運ばれると、ガンに体中を犯されていたことが分かりました。そして亡くなる2日前には意識を失い、3月28日、70歳の誕生日を迎えるのを目前にして彼は息を引き取りました。
彼は遅咲きの音楽家ではありましたが、彼の音楽は多くの人を魅了し、そして今でもたくさんの音楽家やそうでない人たちまでをも魅了させています。
「ラフマニノフ その作品と生涯」C.I.ソコロワ著 佐藤靖彦訳 新読書社