ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの説明


ベートーヴェンといえば、あの怖い顔をした肖像画を思い浮かべる人も多いでしょう。ですが、彼の生涯を紐解くと、彼の優しさ、人間の尊さを信じる気持ち、苦難にも立ち向かっていく心の強さが見えてくると思います。

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの生涯

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンは、音楽家の息子としてドイツのボンで生まれました。祖父はバス歌手で、父ヨハンはテノール歌手とバイオリニストをしていました。ベートヴェン一家は7人の子供に恵まれますが、家族が増えるにしたがってどんどん貧しくなっていきます。父は家計を助けるためにたくさん働き、そしてそのストレスから酒に溺れるようになってしまいました。

貧しい家庭ではありましたが、ベートヴェンは音楽に囲まれて成長することができました。家には歌手や俳優、楽器奏者たちか出入りして、演奏会の話などを良くしていたのです。
歌手でありバイオリニストであった彼の父ですが、「自分は音楽家として成功しそうにない」と自覚していたそう。しかし息子であるルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンには望みを抱いていました。そして彼を第2のモーツァルトとして、優秀で有名な音楽家として育てることを決心したのです。

ベートーヴェンは明るくて心優しい子どもでした。音楽のレッスンの時以外は他の子どもと歓声をあげたりわめいたりもしました。見た目こそ骨太のずんぐりした体で、不愛想な顔でしたが、とても意志の強い子どもだったそうです。そんな少年時代の陽気さは大人になっても変わらず、時や場所にもおかまいなしで、笑いたいときには笑う。それは生涯を通じて変わらなかったそう。

そんな活発な子でしたが小学校での普通の授業の成績はあまりよくありませんでした。それを見かねた父親は「ならば本格的に音楽家に」と思い、学校を退学させ、音楽の勉強に専念させることにしました。
なかば強制的な音楽の指導に、普通の子供だったら嫌がって辞めてしまうこともあるでしょう。ですが彼は学べば学ぶほど音楽を知りたいという気持ちが強くなり、心から音楽を楽しむようになっていきました。

彼が7歳になる1778年、はじめて公開の演奏会を開きました。その演奏会は大成功をおさめ、彼の豊かな才能が世間に示されることになりました。このとき実は父親が彼の早熟ぶりを強調するために、年齢を1歳若くいつわって公表していました。このことから彼自身も40歳になるまで自分の本当の年齢を知らなかったそうです。

そして10歳になるころ、ベートーヴェンはいくつもの楽器を弾きこなせるようになり、そのなかでもオルガンの音色にとても惹かれていました。そこで地元の修道院の門をたたき、そこの専属のオルガン奏者に弟子入りをしました。オルガンの腕もどんどん上達していき、師匠の助手としても選ばれたほどでした。
さらに12歳になるころには宮廷楽長の代理として指揮者を務めるほどにまでなりました。
それだけでなく、オルガン奏者としても宮廷に雇われることが決まったのです。

仕事にもありつけて、これでお金の面でも苦労はしなくなるだろうと思った矢先、彼の父親と母親が体調を悪化させてしまいます。
長男だったベートーヴェンはわずか14歳にして、家族を支えるという責任がのしかかったのです。

ベートーヴェンが16歳の頃、今でも有名なあのモーツァルトはまだ31歳で存命でした。ベートーヴェンは彼のもとを訪ね、その場で作曲して弾く即興演奏という技術を聞いてもらうことにしました。
モーツァルトは彼のあまりにも巧みな演奏に、最初はそれが即興演奏だとは思わなかったそうです。自分がその場で作った曲の一部をベートーヴェンに渡し、その一部をもとに即興演奏をしたことによってはじめてそれが本当に即興演奏だと信じることができたのです。モーツァルトは言いました。「この男はいまに世間をあっといわせる。注目するべき存在だ」と。

その後、ベートーヴェンは生まれの地ボンの劇場のビオラ奏者を勤めたり、宮廷のオーケストラの一員として演奏旅行をしていったりと、経験を積んでいきました。
このころ、現代でも使われるピアノの開発や普及が進んでいき、以前のピアノとは音の豊かさや音域の広さも変わっていきました。そこでベートーヴェンは進歩していくピアノに合わせて、新しい形式の音楽を書くことに情熱を燃やし始めたのです。

とはいえ、彼の心を燃やしたのは音楽だけではありません。年頃になるベートーヴェンは初恋の相手ができました。しかもそれは自分のピアノの生徒に対してでした。
結局この女性との恋は叶わないのですが、友人として長く関係を持つことになりました。

21歳になるころ、彼は憧れの地ウィーンに行きます。音楽が溢れ、有名な音楽家がたくさん集う場所がウィーンなのです。その憧れの地に着いて間もなく、悲しい知らせが届いてしまいます。父親が亡くなってしまったのです。それは悲しみと共に、年金が途絶えてしまうという金銭的な不安を煽るものでした。しかしそれをボンの統治者に伝えたところ、今まで以上の金銭補助をしてくれるということになり、彼はお金の心配の方は消すことができました。

そんなベートーヴェンが公共の場に大きくデビューしたのは24歳になるときでした。市民に対して演奏することは、宮廷などで演奏するのとはまた違った緊張感が伴うものです。
その緊張の演奏会。聴衆は彼の作品を聞いてとても驚くことになります。曲自体の独創性や迫力だけでなく、彼のピアノの演奏技術の高さは大絶賛されるものでした。

そしそれから6年後の1800年、彼は自らの主催による演奏会を初めて開きました。このとき新作の『交響曲第1番」を披露します。彼は独創性の強い作品を生み出すと話題だったので、批評家たちはドラマティックなものを期待しました。しかしこの交響曲は革新的なものというよりは、伝統的で古典派様式に根差したものだったのです。批評家たちは期待はずれだったものの、その質の高さからとても良い評価を与えました。

しかしこの時から、彼は難聴に悩まされていました。
次の『交響曲第2番』の完成の際も、その難聴に苦しめられながら書きました。しかし作曲家でありながら難聴を抱え、それにも関わらず素晴らしい作品を生み出せるということに、人々は彼の作品だけでなくその心の強さに感銘を受けました。

そんな耳の聞こえが悪い仲、彼はどんどん作品を生み出していきます。そのなかでも『交響曲第5番』は今でも有名な作品になっています。『運命』とも題されるこの曲。冒頭が「タタタターン」という特徴的なリズムで始まるのですが、これは彼自身が「運命が扉を叩く音だ」と説明しています。

この『交響曲第5番』の完成から2年後、40歳になる彼は19歳の女性にプロポーズをします。このプロポーズの前にも長い間付き合っていた女性がいたのですが、結局失恋。叶わぬ恋が多いベートーヴェンは恋愛というものに憧れがあったとも考えられています。ですがこの女性へのプロポーズも破断。また失恋してしまいます。しかしこの失恋の後、ベッティーナ・ブレンターノという若い女性が彼を訪ねてきます。生き生きとして誠実で、才気や地震に溢れた女性でした。彼女は「あなたのお仕事を心から尊敬しています」と伝え、溌溂とした女性にベートーヴェンは好感を持ちました。難聴や失恋、その他にも友人との喧嘩などからふさぎ込んでいたベートーヴェンは、彼女の存在のおかげで再び笑顔を取り戻すことができました。
こんなエピソードがあります。ベッティーナと共に舞踏会に出たベートーヴェンは耳が悪くて他の客と会話ができませんでした。しかしずっと小さなメモ帳になにやら書き込みをしています。舞踏会が終わった後、ベッティーナにそのメモ帳を差し出しました。「ほら、歌が出来上がったよ」といいながら。彼は舞踏会のあいだ、彼女に宛てた歌を下記ながら過ごしていたのです。「きみの瞳からこの歌を読み取ったのだ」とも言いました。ぶっきらぼうな彼ではありましたが、このエピソードにはロマンチックなものとして彼のイメージを覆すものであります。

その後も彼は他の交響曲などの作品でも難聴ながら大成功を収めていきます。しかし1817年にはついにわずかな音すらも聞こえなくなってしまいます。
52歳になるころ、彼はヨーロッパ中に名を馳せていました。様々な人たちが彼の元を訪ね、そして彼の意外な優しい態度に驚かされます。あんな革命的な旋律を生み出し、耳が聞こえないからと大ぶりな指揮をする英雄が、こんなにも優しい心根をしているのか、と。

そして彼の最後の大舞台になる、『交響曲第9番』の制作が始まります。
この曲には、人間の葛藤、悩み、苦しみを訴えかける意味を持たせました。しかし曲の最後には高らかに歌い上げる旋律をかきました。苦しみは人生の一部にしかすぎず、生命というものは喜びに満ちたものなのだと、彼は伝えたかったのでしょう。日本でもこの曲は「喜びの歌」として有名でもありますよね。
この曲の演奏後、聴衆は熱烈に拍手し、彼を褒め称えました。耳の聞こえないベートーヴェンだけが客席の様子に気付いていませんでした。しかし若いアルト歌手に客席を振り向くよう腕をとられ、彼は初めてその聴衆の熱狂ぶりに気付いたのです。

その後、彼は体調を崩して肺炎にかかってしまいます。彼の元にはたくさんの友人やファンが見舞いにきました。そのうちのひとりは歌をうたって彼をなぐさめたりもしました。耳の聞こえない彼は、歌手の表情を見てそれを楽しみました。
しかし回復の見込めない状況で、ベートーヴェンは自分の死を悟ります。残ったわずかな力を振り絞り、遺書を書き、その後は昏睡状態に陥ってしまいました。
1827年、吹雪の夕方に大きな雷が鳴りました。その雷鳴と稲妻がまるで彼を目覚めさせたようでした。彼はかっと目を見開き、拳を天に向かって振り上げたのです。その手がベッドに落ちると同時に、彼は息絶えました。
ベートーヴェンは56歳の若さでこの世を去りました。葬式には2万人も人が参列し、偉大な音楽家であり、愛する友人として彼を弔いました。

ベートーヴェンの心と音楽には、自由へのあこがれと、人間の尊さ、信じる気持ち、苦難に立ち向かっていく勇気が込められています。
彼の力強い音楽は、この先も人々にとってかけがえのない存在になるでしょう。

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