ロベルト・シューマン

ロベルト・シューマンの説明


ロベルト・シューマンはとくにピアノ曲と歌曲にその才能を発揮した作曲家で、妻であるクララへの情熱的な愛を注ぎながら、音楽人生を歩んでいきました。

ロベルト・シューマンの生涯


彼は1810年に、今ではドイツであるザクセン王国という地で生まれました。5人兄弟の末っ子で、兄が3人、妹が1人いました。父親は出版社を設立させていたり、母親も詩を書いたりと、文学的な両親に育てられたシューマン。彼自身ものちに文学に没頭するようになります。

母親がピアノを少し弾ける人でしたが、シューマン自身は幼いころから音楽家として育てられたわけではありませんでした。しかし7歳の時にベートーヴェンが作曲した交響曲を聞いて感動し、それから自分でも曲を作ってみたりもしたそうです。
9歳の時にはモシェレスという作曲家のピアノリサイタルを聞きに連れられ、そこで圧倒的な感動をしたそう。この体験がシューマンをピアニストになりたいと思う出来事だったとも言われています。

10歳になり、ギムナジウムという中高一貫校の学校に入学したシューマン。そこでは才気もあり、目立った存在だったといわれています。

1821年、彼が11歳のころ、詩と混ざり合う合唱と、管弦楽のための作品を書きました。この作品について、彼自身はのちにこう語りました。「私にはあらゆる知識が不足していた。私はまさに子供のように、しあkし外面的な刺激なしに、作曲した。すでに少年時代から創作をしたくてたまらなかった。ただしそれは音楽ではなく、詩のことだった」

シューマンはこの時期の音楽へののめり込み具合を「音楽病」と自ら名前を付けていた。
ピアノで即興的に、幻想的な作品や変奏曲などを演奏することを楽しみ、夕食後には自分で作曲したものを家族に聞かせるのを習慣にしていました。

1828年にギムナジウムを優等生として卒業したシューマンは、ライプツィヒ大学に進学します。彼はこのときフェンシングのクラブに入会したり、酒やコーヒーを飲んだり、友人と議論を交わしたり、遠くに散歩に行くのを好んでいたそうです。

そしてそのころ、下宿先にピアノを借り入れ、毎日2時間ずつピアノの勉強を始め、再びピアノの即興演奏を楽しみました。このとき一つのピアノを2人で弾く連弾の曲も作り、『蝶々』もこの時期に作曲されました。

バイオリンやチェロを弾く友人と共に演奏を楽しむとき、シューマンは葉巻煙草をくわえながらピアノに向かうことが多かったといいます。また演奏の休憩のときには偉大な作曲家バッハについての議論を多かったそうです。

この時期にシューマンは本格的にピアノのレッスンを受けたのですが、教わったのは将来自分の妻になる女性の父親でした。フリードリヒ・ヴィークという厳しい音楽教育家にレッスンを申し込み、彼の娘であるクララと出会ったのです。そのときクララは9歳でしたが、シューマンいわく「驚くほど巧みに」演奏したを聞かせてくれたのです。
ヴィークは厳しい先生でしたが、シューマンの才能を認め、それを伸ばそうと力を尽くしてくれた人物です。シューマン自身もヴィークの個性に惹かれ、レッスンを何時間も延長してもらったりして、めきめき上達していきました。

このとき母親に宛てた手紙には、ピアノだけでなく普通の勉強もきちんとやっている、と書いていましたが、実際には早朝からピアノに向かい、音楽以外のことは考えていないという状況でした。

19歳の時、色々な国に行ってみたいと思っていたシューマンは、アルプスのあるスイスや、芸術の盛んなイタリアに旅行にいきました。以前からお金の使い方が激しいシューマンでしたが、この旅行代も母親に送ってもらうように頼んでいました。

スイスとイタリアの旅行を満喫して、ハイデルベルクに帰ってきたシューマンは一段と音楽に身を入れるようになります。ピアノ演奏の腕前はすでに街中でも評判になっており、演奏の依頼を受けるほどでした。

その後、生まれた地に帰り、そこで最初のピアノの先生であるヴィークの娘、クララと再会します。初めはまるで兄妹のように仲良くしていましたが、彼女の音楽性と人間的な温かみに強く惹かれるようになり、恋愛感情へと進展していきました。しかしクララはまだ14歳で、シューマンは自身の気持ちも不安定でした。ちょうど同じころ、彼の兄が亡くなってしまったのです。このとき彼はとても心が弱ってしまい、孤独感に苛まれました。しかしそれも友人や知人のあたたかい励ましによって回復します。

その後、彼にはもうひとり気になる女性が現れました。エルネスティーネという音楽愛好家の養女と出会ったのです。音楽的な才能に溢れ、無邪気な彼女のことを「自分の妻にしていいような人」とまで表現しましたが、彼女がその音楽愛好家の本当の娘ではないということと、手紙の文法の誤りが多いという教養の低さから気持ちが薄れていきます。きっと文学好きのシューマンにはその教養の低さが耐えられなかったのでしょう。ですが、この彼女との関係によって『謝肉祭 作品9』と『交響的練習曲』が作られました。

1836年、シューマンが26歳のときです。母親が亡くなってしまい、再びシューマンに悲しみが襲います。その慰めのためにも、彼はクララにまた惹かれ始めていきます。クララ自身も、シューマンの純粋な気持ちに惹かれ始め、自分の演奏会でシューマン作曲の曲を演奏曲目に入れるなどして、それとなく気持ちを伝えたりもしました。そしてクララが18歳の誕生日に、2人は結婚を決めました。しかしクララの父親でありシューマンのピアノの先生でもあったヴィークはそれを承諾せず、むしろ怒り、文通さえも禁止させました。時間の経過によってヴィークの気持ちは和らいでいきますが、何度も様々な条件を出し、それをクリアできなければ認めないといって聞きませんでした。このとき作られたのが今でもとても有名な『ピアノソナタ第1番』『幻想小曲集』『子供の情景』などです。クララに対する愛と情熱の表れが、これらの曲に出ていると考えられます。

その後シューマンとクララは裁判を起こし、ヴィークの条件無しに結婚することができるように判決を下してもらい、ようやく2人は結ばれました。

シューマンの作曲活動はそれまでピアノ曲が殆どでしたが、結婚のことが迫っていくと同時に歌曲の作曲が増えていきました。『ミルテの花』『女の愛と生涯』『詩人の恋』など、1年間で120曲以上も作り、この1840年のことを「歌曲の年」と今では呼ばれています。
ちなみに1841年は「交響曲の年」、1842年は「室内楽の年」と呼ばれており、シューマンの特徴として、ひとつに拘る、という作曲傾向が見られます。

またシューマンは子供好きで、子供のためにはとても気配りができる人でした。彼らの間には8人の子供が生まれましたが、そのぶん生活費を稼ぐのが大変になっていきます。クララの方が収入がよかったので、彼女は演奏旅行を増やし、シューマンも大作を書いてお金を稼いでいきました。

しかしシューマンは大作を書いてもそれに見合った報酬が手に入らず、過労によって2度倒れてしまいます。また、死を異常に恐れたり、高層建築などの高い所へも恐怖を感じるようになりました。
それは一時は回復しましたが1852年の夏ごろ、さらに酷くなって再発します。神経過敏や憂うつ、聴覚不良。言語障害などがシューマンを襲いました。
このころシューマンは宗教的な作品を書くようになります。代表的なもので『ミサ曲 ハ短調』や『レクイエム』です。
翌年、幻覚が見えたり、頭のなかを奇妙な音楽が渦巻いていたり、眠れなかったりと、異常な精神状態はさらに進行していきました。彼のこの症状は一体何緒病気だったのか長年謎に包まれていましたが、彼の死後から約140年経った1994年、様々な検査や日記からの検証により、それがかなり進行した梅毒のせいだったと報道されました。

彼は療養のために施設に入ったりもしましたが、回復は見られませんでした。しかし施設内では読書や散歩、ピアノを弾いたり手紙を書いたり、訪ねてきた偉大な作曲家であり友人のブラームスとのお喋りを楽しんだりすることはできました。
ですが1855年の夏の終わりごろ、発音も困難になり、聴覚、味覚、嗅覚などの感覚の麻痺も酷くなっていました。
そして1856年7月、46歳のシューマンは穏やかな眠りに入りました。

音楽とクララとともに人生を歩んでいったと言っても過言ではないシューマンの一生は、愛に溢れ、愛を注ぎ、そして愛される人物でした。それはこれからの時代も変わらないでしょう。

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