ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの説明


誰もが知っている有名な曲を数多く作った偉大な作曲家、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト。
モーツァルトは現在も多くの人々に愛され、世界中で演奏されない日は無いと言っても過言ではないくらいに、国境を超えて愛される音楽を生み出した人物です。
彼は早くに亡くなってしまう短い人生ではありましたが、彼の作品はいまでも根強く残るほどに影響を持っています。

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの生涯


ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは1756年1月にオーストリアのザルツブルグに生まれました。父はザルツブルグの音楽家としてバイオリンを弾く人でした。
モーツァルトの少年時代は、身長も小さく、痩せていたといいます。大人になっても背はあまり伸びず、身長150センチほどだったそうです。

彼の家には父親の影響もあって楽器がたくさんありました。ハープシコードやクラビコードというピアノの生まれる前の鍵盤楽器や、バイオリン、リコーダーなどが自由に使える生活環境でした。
ちなみにモーツァルトが生まれたくらいの年に、今でいうピアノという楽器も開発されました。しかしまだまだ珍しく、高価なものだったので、小さい頃のモーツァルトはそれには触れていないと言われています。
このように楽器に囲まれた生活をしていたモーツァルト。初めての音楽の先生は父親でした。自分と同じように音楽家になれるようにと、幼いころから厳しくレッスンをつけられていました。
そんなモーツァルト少年は、いろいろなことに興味をもつ、明るくて頭のいい、心の優しい子どもだったそうです。仲の良い姉と遊んだり、時には家族にいたずらしたりと、普通の少年のようなところも勿論あったのです。
また、この少年は将来、女好きとしても有名になってしまうモーツァルトですが、彼の両親がとても美男美女だったというのも影響していたのではないかとも言われています。

もともと音楽のレッスンをうけていたのは姉のナンネルの方だったのですが、彼がレッスン中の姉にいたずらをしすぎるので父親が一緒にレッスンを受けさせたところ、彼の持っている才能に気付けたのです。このとき父親がこの選択をしていなかったら、いま私たちが知っているモーツァルトではなかったかもしれないですね。
彼はこの時4歳だったのですが、こんなエピソードが残っています。作曲の勉強を始めたてのころ、長い「協奏曲」といういくつもの弦楽器とピアノを使っての編成の曲を、なんとたったの数日で書き上げてしまったのです。大人でもそんなに早く作りあげるのは難しいのに、4歳の音楽を習い始めたばかりの少年が作ったので周りは大驚きでした。
父親はこのことからもモーツァルトの才能を確信し、もっと大きな街に移り、この才能を多くの人に認めてもらおうとして動き始めました。

そして1762年、モーツアルトが7歳の頃に家族でドイツのミュンヘンに旅立ちました。
宮廷での演奏では姉と一緒に難しい二重奏を弾き、大人顔負けの演奏をやってのけ、さらには鍵盤を布で覆って見えなくしたまま弾いてみせるという芸当までやってのけました。
ミュンヘンでの演奏はたちまち噂が広がり、次なる演奏旅行地として音楽の都ウィーンに進出しました。
ウィーンでも彼の才能は余すことなく発揮され、ついに皇帝一家の前で演奏するよう招待状まで届きました。もちろん皇帝の前でもモーツァルトは変わらず天才ぶりを発揮し、「難しい曲を1本の指だけで弾いてみろ」という課題も難なくやってのけました。

その後、ドイツだけでなく隣の国、フランスのパリにまで彼の活躍は広げられます。ベルサイユでの演奏の成功をきっかけに、フランスでも彼の才能や噂が広められ、たくさんの演奏会に招待されました。
しかしこの忙しさの中で、体の弱かったモーツァルトは喉の炎症などによって寝込んでしまいます。また、こうした体調不良だけでなく、当時は演奏の最中に食事やお喋りをすることの多い文化だったため、音楽に集中して聞かない聴衆を嫌うモーツァルトは不満も抱えていました。

フランスの次はイギリス、ロンドンに向かいました。
このロンドン滞在中、9歳になったモーツァルトは初めての交響曲を作りました。この時代、交響曲はまだ新しい形式の音楽でしたが、ロンドン滞在中に出会ったヨハン・クリスティアン・バッハという偉大な音楽家ヨハン・セバスティアン・バッハの息子との出会いによって作られました。

その後も演奏旅行を続け、11歳を目前にしてすでにモーツアルトの名はヨーロッパ中に知れ渡っていました。
一度は生まれた地に帰ったものの、再び演奏旅行を再開し、モーツアルトはオペラを作るための資金集めとして活動を広げていきました。オペラは音楽だけでなく芝居も必要で、上演時間も長いことから作り上げるのには資金も時間も人材も負担が大きかったのです。
しかし結局この最初のオペラ制作は年齢のこともあり失敗に終わってしまいます。ですが、当時のヨーロッパの音楽家としてさらに一目置かれた存在になるためには、オペラの盛んなイタリアでも成功をおさめなくてはなりませんでした。そこでモーツァルトはさっそくイタリアに出発します。
イタリアでの演奏活動はこれまで通り、とても歓迎されました。音楽の評価に厳しいミラノや、ボローニャでも人気になり、1770年14歳の彼は「黄金拍車勲章」というたいへん名誉な騎士の称号を授けられました。

イタリアでの活躍後、生まれた地ザルツブルグに帰ってからモーツァルトの不幸な時代が始まりまってしまいます。
長い間応援をしてくれていた、ザルツブルグの大司教が亡くなってしまい、新しい大司教は人を見下し、自分より劣るものを蔑み、なにより音楽の素晴らしさを理解していなかったのです。この新しい大司教との対立は続き、宮廷楽団に入れさせてもらえてもその給料も地位も低かったり、モーツァルトのことを単に利用するためにこき使ったのです。
まだ旅をすることを許されていたモーツァルトは、再びイタリアに行き2度目のオペラの挑戦をしました。今度は上演までこぎつけ、26回上演することができました。この公演が終えたのち、ザルツブルグに帰ったモーツァルトは大司教にクビを言い渡されてしまいます。しかし彼にとってはあんな大司教のもとで働くよりも、別の地で自分の運を試そうと試みたのです。

ザルツブルグを出て、ミュンヘンやウィーンで生活を始めたモーツァルト。26歳になる1782年にコンスタンツェという家事もできて心根も優しい女性と結婚します。そして翌年、男の子の赤ん坊が生まれました。しかしこの初めての子供は4か月後には亡くなってしまいます。その後も何人か二人の間に子供ができるのですが、ほとんどが大きくなる前に亡くなってしまいました。

1786年、モーツァルトは新作のオペラ『フィガロの結婚』を上演します。このオペラは音楽がとても難しく、当時の観客は耳慣れない新鮮で衝撃的だったといいます。
この『フィガロの結婚』はロレンルォ・ダ・ポンテという台本作家と共に作り上げたのですが、ダ・ポンテとモーツァルトはとてもいいコンビになり、その後『ドン・ジョヴァンニ』という作品でも大成功を収めます。オペラによって人の心を揺さぶることができたのは、この2人の共同作業による作品だったからだと言われています。
成功を収めていく彼らですが、モーツァルトの方は多忙によって体調を崩してしまいます。さらにはこの『ドン・ジョバンニ』の制作中、父親が亡くなってしまうという悲報まで届いてしまいました。しかし上演の日にちは揺るぎないものなので、どうにか完成させなければなりません。モーツァルトは病や不幸を乗り越え、オペラの幕をひらき、上映地であったチェコのプラハで賞賛を浴びることができました。
この『ドン・ジョヴァンニ』という作品。プラハでは大成功を収めましたが、ウィーンでの上映は上手くいきませんでした。土地柄の音楽性が合わなかったのです。

その後、35歳になる1791年、『魔笛』というオペラが作られます。このオペラはモーツァルトが入会していた結社フリーメイソンの思考が散りばめられた作品です。たとえば、大蛇や魔法の笛をたずさえての試練などがそれをほのめかす材料とされています。
この『魔笛』はウィーンでも熱狂的に評価され、当時モーツァルトの宿敵だったアントニオ・サリエリという作曲家でさえもこの作品を褒め称えたほどでした。

この『魔笛』の制作をしている最中、モーツァルトのもとに一人の男がやってきました。名前も名乗らず、「レクイエムを書いてくれ」と注文をしてその男は立ち去っていったのです。レクイエムとは、死者に捧げるミサ曲です。モーツァルトは当時体調も悪かったことから、自分の死の使いだったのではと不気味に感じていました。この男の注文に心を乱されたモーツァルトは、すっかり弱ってしまい、妄想に取りつかれ急に泣き出してしまったり、頭痛などにも苦しめられていきます。さらに腎臓病が進行してしまい、高熱なども重症化して彼は危篤状態に陥ってしまいました。自分の死期が近いと悟ったモーツァルトは『レクイエム』の作曲を弟子に指示を与えます。その1か月後、熱はさらに上がり、意識が戻ることもなくなりました。1791年12月5日、35歳の若さでしたが、モーツァルトはその生涯を閉じました。

彼がこんなにも短い生涯でなければ、美しい作品はもっと多く生まれたことでしょう。ですが、この短い一生で40を超える交響曲、20近くのオペラ、20以上のピアノ協奏曲、多くのソナタや弦楽四重奏、宗教音楽、伴奏音楽が作られました。これらの生み出された音楽は、この先の未来でもきっと世界中に愛され続けるでしょう。

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