ショパン・コンクールと日本人(後編)

ショパン・コンクールと日本人(後編)

神保夏子(音楽学)

ポーランド人のようにマズルカを弾く

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かくして日本人はショパン・コンクールの押しも押されもせぬ常連となったわけだが、この過程と並行するように、ワルシャワの祭典は単なるピアノ・コンクールの域を超えて特異な崇拝の対象となっていった。実際、時代が進むにつれ、日本のピアノ関係者たちは、他のいかなるコンクールとも異なる「ショパン・コンクール」ならではの意味合いに注目するようになる。そして様々な議論を引き起こした1985年の「日本人による」ショパン・コンクールあたりを境目として、ショパン演奏の「真正性」、すなわち本場ポーランドの教授たちが伝える「ポーランド的」なショパンを追求する流れが、日本においても本格的に形成されてゆくのである。

この「ポーランド的」なショパン解釈については、イギリスの音楽学者ニコラス・クックが興味深い分析を行っている。クックはショパンのマズルカの演奏録音のビッグデータを用いた「マズルカ・プロジェクト」と呼ばれる研究プロジェクトの延長線上で、ポーランドのピアニストたちの演奏がショパン・コンクールを介して現代のショパン演奏のスタイルに大きく影響を及ぼしてきたことを実証的に示した。その中で逸話的に取り上げられたのが、ショパン・コンクールに出場した日本のとあるピアニスト(ここでは仮にA氏としよう)の事例である。

▲ニコラス・クック

クックと共同研究者クレイグ・サップによるこのプロジェクトの主眼は、同一作品の多数の演奏録音のデータに基づいて、演奏同士の類似性をコンピュータで定量的(つまり客観的)に分析するというものだった。類似性判定の指標としては、主にテンポ・リズムなどの演奏のタイミングに関するデータが用いられた。

その結果、さまざまな録音同士の類似パターンが客観的な形で浮かび上がってきたわけだが、ここでA氏が注目されることになったのは、この人のショパン・コンクールでの演奏が、あるポーランド人ピアニスト(仮にB教授としよう)の録音と明らかに酷似する特徴を示していたからである。詳細を調べてみればなんのことはない、A氏はきたるべきショパン・コンクールに向けてポーランドに留学し、当該回のコンクールの審査員でもあったB教授に師事していたのであった。

▲サップの学位論文におけるA氏とB教授のショパン演奏様式の類似性を示した図表。演奏者の固有名および録音年は伏せた。

ナショナリズムとショパン

もちろん、上記のように生徒が教師の影響を受けるということ自体はさして珍しくはないが、ここで目を引くのはその似方があまりに顕著であること、そしてそうした(おそらくは)一種の模倣行為を、コンクールというシステムが構造的に後押ししたと思われることである。
確かに、ショパン・コンクールを目指してポーランドに留学したピアニストがみなこのように教師とそっくりな演奏をするということはないだろう。しかし、このコンクールの審査員と弟子のコンテスタントの影響関係が、ショパンの全作品中で最も「ポーランド的」なジャンルとされるマズルカのリズムを通して明るみに出たというのはきわめて示唆的である。

ポーランドの民俗舞踊に起源を持つと伝えられるショパンのマズルカのルバートは、しばしば「ポーランド人」でなければ正しく表現できないものだと信じられてきた。ショパンの音楽が多くの人の心をとらえる魅力を持っている一方で、日本人にとってどこか近づきがたい神秘性を纏っているようにも思われるのは、このいわく言い難い「ポーランド性」の存在ゆえに他ならない。そしてこの「ポーランド的」なショパンの演奏法こそ、ショパン・コンクールがその設立当初から――様々な論議を経ながらも――ごく最近まで推進してきたものである。

他方、クックが指摘している通り、ショパンやそのマズルカに与えられたポーランドのシンボルとしての意味合いは、この国の過去の悲劇的な歴史や冷戦期の共産主義イデオロギーとの関わりといった政治的なコンテクストとも切り離すことができない。近年ショパン・コンクールの推奨楽譜に指定されているヤン・エキエルらの校訂譜がいみじくも「ナショナル・エディション」と銘打たれているのはもちろん偶然ではない。

このようにポーランド・ナショナリズムと色濃く結びついたショパン像を、日本のピアノ界はかなり愚直に輸入しようとしてきたふしがある。長年蓄積されてきたショパン・コンクールへの熱狂的な関心が、そこでの大きな推進力となってきたことは言うまでもない。

変化するショパン・コンクール

もっとも、近年ではワルシャワのコンクールで求められる演奏の在り方に何らかの変化が生じている可能性もある。2015年から審査に加わったイギリスの音楽学者ジョン・リンクは、実績のあるショパン研究者であるとともに、上記のクックらの「マズルカ・プロジェクト」をその一部として含む演奏研究の大型プロジェクトにかかわっていた人物だ。個々の演奏家の創造性を重視する、この新しいタイプの音楽研究の視点からすれば、ナショナルな伝統や楽譜テクストへの「忠実さ」を重んじる従来のショパン演奏の規範は大幅に相対化されることになろう。

▲ジョン・リンク

中国・日本・韓国などにルーツをもつ東アジア系の演奏家がコンクールにおける文字通りの「マジョリティ」となってきたことも、審査員や出場者の意識に少なからず影響を与えているに違いない。コンクールはあくまで個人と個人の闘いだが、出場者や入賞者の国籍はメディアの報道をはじめ何かと話題に上る。かつての「日本人によるショパン・コンクール」は、いまや「アジア系」によるそれに変化した。一方、グローバル化の進展によって、特定の国や民族に固有の演奏様式というべきものの大方はすでに失われている。現在の出場者の国別内訳にあらわれているものは、それぞれの国がクラシック音楽を、そしてショパン・コンクールをいかなる形で受容してきたかということの歴史である。

日本人が初めてショパン・コンクールに参加してから84年。今回のコンクールの盛り上がりは、日本人にとってのショパン・コンクールの「特別さ」が令和の世の中でもなお健在であることを証明した。時代によってやや異なる様相をみせながらも、ショパン・コンクールはある意味で、現代日本のピアノ文化の最も重要な部分のひとつを形成してきたともいえるのかもしれない。

【主要参考文献】
青柳いづみこ『ショパン・コンクール――最高峰の舞台を読み解く』中央公論新社、2016年。(中公新書2395)
Cook, Nicholas. Beyond the Score: Music as Performance. New York: Oxford University Press, 2013.
Sapp, Craig Stuart. 2011. “Computational methods for the analysis of musical structure.” Ph.D. diss., Stanford University. https://www.proquest.com/dissertations-theses/computational-methods-analysis-musical-structure/docview/2453983182/se-2?accountid=16869 (accessed October 26, 2021).

神保夏子(じんぼう・なつこ)
京都市出身。
東京藝術大学音楽学部器楽科ピアノ専攻卒業。
同大学音楽学部楽理科を経て同大学大学院音楽研究科博士後期課程修了。博士(音楽学)。
専門分野は演奏文化史、近代フランス音楽史。近年は現代の西洋芸術音楽の演奏文化にコンクールなどの競争制度が与えてきた影響についての歴史的研究を行っている。
共訳書にQ. メイヤスー『亡霊のジレンマ』(青土社)。
東京藝術大学、国立音楽大学、桐朋学園大学各非常勤講師、立教大学兼任講師。
著書:コンクール文化論: 競技としての芸術・表現活動を問う

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