クラシック音楽作曲家のオモテウラ 第3弾

第3弾では、ロマン派と呼ばれる時代に活躍した作曲家たちを紹介します。ピアノを弾く人にとっても、聴くのが好きな人にとっても……きっと憧れの作曲家たちなのではないでしょうか?

【ロマン派とは】

ロマン派の音楽とは、主に19世紀(つまり1800年代ころ)の音楽を指します。19世紀と言えば、1789年のフランス革命をきっかけに人々が持つ権利が重要視されるようになり、産業革命で生活がどんどん便利になっていった時代です。そのようなロマン派の時代は、古典派の形式という枠を飛び出し、作曲家たちの個性が爆発的に多様になる時代でした。ロマン派の音楽には、歌うような美しい旋律がよく見られます。古典派までの和声がカッチリとした型のようだったのに対して、ロマン派の和声は色とりどりのパレットのようなもので、うねりながら美しい旋律を支えます。和声自体が作曲家の表現方法の1つになっているのです。そして時代が進んで行くと、ハ長調やト短調といった調性を使わない、「無調」の世界へと足を踏み入れていく作曲家が現れ始めます。
しかし、ロマン派の作曲家たちはあまりにも個性が強いので、ロマン派の音楽とはこういうものだ!と言ってしまうことはとてもできません。このように作曲家が多種多様な個性を見せるようになったのには、社会の変化によって音楽を誰もが楽しめるようになり、聴き手の幅が一気に広がったことが関係しています。古典派までの作曲家たちは、たいてい王様や貴族などから注文を受けて作曲していました。それに対してロマン派の時代には、音楽が完全に市民たちの手に渡り、世間の人々が納得する素晴らしい作品が作ることができれば作曲家が一躍スターになるということが可能になりました。そのため音楽界で生きていくためには、自分の個性を音楽で表現し、他の誰にも作れないような作品を作曲するのが何よりも重要だったのです。作曲家が、注文に応じてその時々に合った作曲をする職人から、自分をさらけ出す芸術家へと変化した瞬間でした。(ベートーヴェンにもその傾向はあり、彼はロマン派に大きな影響を与えたと言われています)
また、産業革命はピアノの発展にも影響を与えました。ピアノの仕組みや構造は現在のものとほとんど同じになり、高度な演奏技術に耐えられ、がっちりと丈夫で響かせられるピアノが作られるようになりました。そのようなピアノを弾いて活躍したのが、リストなどのヴィルトゥオーゾです。彼らは華麗な超絶技巧で聴衆を魅了し、現在のようなコンサート・ピアニストの元となりました。


↑ショパンが好んで弾いたプレイエルのピアノ
画像:ワクワク ピアノ伝道師のピアノ選びのアラカルト より引用


↑リストが好んで弾いたエラールのピアノ
画像:ピアノプラザ より引用

フランツ・シューベルト/Franz Schubert(1797~1828年、オーストリア)


歌曲王は実は…ベートーヴェンの大ファン
・・・オモテ
・・・ウラ

シューベルトはピアノ・ソナタや即興曲など、数多くの優れたピアノ作品を残していますが、彼がとりわけ活躍していたのは「歌曲」の世界でした。歌曲とは、歌にピアノの伴奏をつけた作品のことです。シューベルトより前の時代の歌曲では、ピアノの伴奏はずんちゃっちゃ♪ というように単純なリズムと和音のものが普通でした。しかし、シューベルトは歌についた言葉の内容を表現するために、ピアノ伴奏に工夫をこらしました。そうして、シューベルトは歌曲でのピアノをより豊かで重要なものにしていったのです。ドイツ語の歌曲の世界でたくさんの素晴らしい作品を残したシューベルトは、「歌曲王」と呼ばれています。ピアノを習っている子の中には、あまり歌曲に触れたことがない…という子も多いかもしれませんが、この機会にぜひ聴いてみてください。きっと初めて《魔王》などを聴く人はびっくりするでしょうし、シューベルトが歌と一緒にピアノをどう活躍させたかったのかが分かってくるでしょう。

そんなシューベルトはロマン派の作曲家に分類されることが多いのですが、実は古典派の作曲家ベートーヴェンとほぼ同時期に生きていました。シューベルトはベートーヴェンのことをとても尊敬していて、ベートーヴェンのお葬式にも参列していました。そして、ベートーヴェンが亡くなってからたった1年後に、シューベルト自身も後を追うように亡くなってしまいます。そのときに彼は「もしも自分が死んだらベートーヴェンの隣に埋葬してほしい」と言い残したそうです。また、シューベルトは子供のころ、ベートーヴェンの先生であるサリエリに作曲を習っていました。ちなみにサリエリはモーツァルトの宮廷でのライバルとしても有名なのですよ。このように、シューベルトは古典派とロマン派がちょうど移り変わっていく時期に活躍した作曲家でした。そのため、彼は古典派の良さとロマン派の良さをあわせ持った素敵な音楽を創り出すことができたのです。

♪ 歌曲《魔王》/Erlkönig

ある夜、子供を連れた父親が馬に乗って駆けています。そこへ魔王が忍び寄り、子供に一緒に来ないか?と誘いかけます。「お父さん、お父さん!怖いよ!魔王が僕を連れていくよ!」子供はそう叫びますが…。そんな歌詞の内容によく合った、激しくおどろおどろしい歌曲です。歌い手は1人でナレーター、父親、子供、魔王の4役をこなし、ピアノは馬が走る様子を表すように連打で鳴らされます。魔王が子供に話しかける場面では、急に音楽がかわいらしくなるのがなんとも不気味です。

フレデリック・ショパン/Frédéric Chopin(1810~1849年、ポーランド→フランス)


故郷を追われたピアノの詩人は実は…漫画家の才能もあった
ピアノを習っている人にとってショパンの作品を弾くというのは、きっと憧れなのではないでしょうか? 私も小学生のころ、コンサートで高校生のお姉さんが弾いていたショパンの曲を聴いて「なんてかっこいいんだろう…。自分もこの曲を弾いてみたい!」と思ったのをよく覚えています。ショパンのピアノ作品は豊かで華やかで、それでいて繊細で、ピアノ好きの心をとらえて離さない魅力を持っています。そんなショパンが「ピアノの詩人」と呼ばれるのは納得でしょう。ショパンは様々な種類のピアノ作品を残しました。ピアノ・ソナタはもちろん、ワルツやマズルカやポロネーズといった舞曲、エチュード、ノクターン、前奏曲、スケルツォにバラード…。CMなどでもショパンのピアノ曲はよく使われているので、知らず知らずのうちに皆さんの耳にもきっと入っていることでしょう。
この中でもマズルカは特に作品数が多く、ショパンがライフワークのように取り組んでいたものだと言えます。ショパンはまるで日記を書くかのようにマズルカを次々と作曲していたのです。このマズルカというのは、ショパンの故郷ポーランドの民族舞曲です。ショパンが生きていた時代、ポーランドは政治が不安定な状態でした。そんな中ポーランドで革命が起こり、ショパンは故郷を追われその後はパリで活躍しました。彼にとってマズルカを作曲するということは、自分はポーランド人だという証であるとともに、心の支えでもあったのでしょう。故郷に帰ることができないというショパンの葛藤は、彼の音楽に深い色を与えているのです。

音楽家として非常に有名なショパンですが、実は漫画家としての才能も持ち合わせていました。下の画像は、ショパンが少年の頃に描いたカリカチュア(風刺画)です。

画像:for travel.jp より引用
ずんぐりむっくりとした男性をユーモラスに描いているのが印象的ですね。寄宿学校に行っていた少年ショパンは家族に宛てた手紙で、「漫画の仕上げを邪魔されないように、先生には一人で食事をすると言って、自分だけの時間を確保している」というようなことも書いており、彼が絵を描くことを楽しみにしていたことがよく分かります。さらに漫画の他にも、ショパンは学校の友人たちの前で即興でお芝居をして楽しませていたというエピソードもあり、俳優の才能もあったことが分かっています。どちらの特技からも、ショパンが人を観察するのに長けていて、魅力的なユーモアを持っていたことが見て取れます。内気で病弱なイメージとは違う、少年ショパンの以外な一面が垣間見えてくるでしょう。

♪練習曲 ハ短調 Op. 10, No. 12〈革命〉/Etude Op.10, No.12

エチュードとは「練習曲」という意味ですが、さすがはピアノの詩人ショパンが作るものは一味違います。単なる指の練習にとどまらず、豊かな表現力が無ければ弾きこなせないような極めて芸術性の高いエチュードをショパンは創り出したのです。
今回取り上げるエチュードは「革命のエチュード」としてとても有名なので、知っている人も多いのではないでしょうか? ショパンはこの曲を故郷での革命への嘆きから作曲したという逸話が伝えられていますが、実は「革命」というのはショパン自身がつけた題名ではないのです。ショパンが何を思ってこの曲を作ったのかは定かではありませんが、時代が革命の真っただ中だったというのは事実であり、あまりにも激しく崩れ落ちるような曲想は「革命」と呼ぶにふさわしいとも言えるでしょう。

フランツ・リスト/Franz Liszt(1811~1886年、ハンガリー→フランス)


モテモテのピアノの魔術師は実は…聖職者になった
リストは、「ピアノの魔術師」と呼ばれるほどの超絶技巧を持ったピアニスト・作曲家として有名です。特に彼が若いころに書いた作品を弾いてみると、あまりの技術的な難しさに驚くのではないでしょうか? リストは、当時ヴィルトゥオーゾとして一世を風靡していたヴァイオリニストのパガニーニの演奏を聴いて衝撃を受け、「自分はピアノのパガニーニになる!」と決意しました。そうして、みんながあっと驚くような難しくて複雑なピアノ作品を作り、ピアノが持つ可能性を広げていったのです。
ピアニストとして活躍していたリストは、なんと世界初のソロ・リサイタルを開いた人でもあります。「リサイタル」という言葉を初めて使ったのもリストでした。また、楽譜を見ないでピアノを弾く、つまり暗譜の文化を作ったのも実はリストなのです。それまではピアニストたちは楽譜を見て演奏するのが普通だったので、まったく楽譜を見ずに難しい曲を難なく弾くリストを見てお客さんたちはびっくり仰天したことでしょう。暗譜が苦手な皆さん(私もですが…)、今私たちがコンサート前に必死で暗譜しないといけないのは、リストの責任なのかもしれませんね…笑
肖像画からも分かるようにかなりのイケメンだったリストは、ピアノの演奏が素晴らしかったのも相まって、非常に女性にモテていました。彼のリサイタルで、あまりのかっこよさに気絶する女性が出るほどだったそうですよ。リストの父は、死に際にも彼の女性関係の心配をしていたと言います。その後、リストは伯爵夫人と駆け落ちをして世間をにぎわせたので、父の心配はまさに的中していたのでした。

このようにかなり派手だった若いころからは想像がつかないかもしれませんが、年を取ってからリストはなんと聖職者になります。リストはようやく落ち着いて結婚したいと思える女性と出会ったものの、彼女は侯爵夫人である上に侯爵との離婚が認められないというトラブルや、子供を亡くしてしまうなどの不幸が重なり、宗教に救いを求めるようになったのです。そのため、若いころの華やかなピアノ作品たちから一転、晩年は宗教音楽にも盛んに取り組むようになりました。また聖職者になったあとも、作曲や弟子たちの指導、無料での演奏会を熱心に行い、音楽や人々のために尽くしました。
リストが演奏家をやめたあとの作品は、和声の使い方などがとても斬新で、まるで未来の音楽を暗示するかのように感じられます。彼の音楽は、のちのドビュッシーなどにも影響を与えました。リストはピアニストとして華やかに活躍しただけではなく、音楽を未来へと切りひらいていった作曲家だったと言えるでしょう。

♪《パガニーニによる大練習曲》第3番 嬰ト短調〈ラ・カンパネラ〉

パガニーニのヴァイオリン協奏曲の主題を、リストが編曲して作ったピアノ作品です。リストの「ピアノのパガニーニになる」という決意がよく表れた曲と言えます。「カンパネラ」とはイタリア語で「鐘」を意味し、その題名の通り高音で鐘が鳴り響くような音型が特徴的です。

小野寺 彩音

小野寺 彩音 (おのでら あやね)

岩手県出身。

東京藝術大学音楽学部楽理科を経て、同大学大学院音楽研究科音楽文化学専攻音楽学研究分野修士課程に在学中。
学部卒業時にアカンサス音楽賞を受賞。
大学院では「オペラにおける道化」についての研究を行うとともに、オペラ演出を学ぶ。

5歳からピアノを始め、現在はピアノソロ作品に加え、オペラ・アリアや歌曲、ミュージカル作品など幅広い年代の声楽作品の伴奏の研鑽を積んでいる。