全日本ピアノコンクール

今井裕さん

一般O56の部1位に輝いたのは、今井裕さんです。16歳で一度ピアノをやめ、51歳から再びはじめた“大人再開組”。電機メーカーのエンジニアとして働くかたわら、周りにいる再開組のチャレンジする姿に刺激を受け、5年ほど前から人前で弾く機会を設けてきました。魅力的な審査員の顔ぶれと全国大会はみなとみらいホールで演奏できることに惹かれ、出場を決めたという今井さん。お仕事が終わったあと、オンラインでインタビューに答えてくれました。

今井裕さん

「参加賞ではない賞がもらえたらいいな、というくらいの気持ちだったので、1位の結果には驚きましたが、素直に嬉しいです」と今井さん。8年前に再開するまでの35年間は、コンサートに行ったりはするものの、ピアノの技術が向上するための向き合いかたはしていませんでした。再開してから3年ほどは、以前のように指が動くよう個人的に練習を重ね、その後レッスンに通うように。現在は複数のピアノサークルに所属し、発表会や弾き合い会にも参加しています。さらに、客観的な評価とより丁寧に曲を仕上げる機会として、時々コンクールにチャレンジしてきました。今回は、5年前からレッスンを受けている米津真浩先生に勧められてエントリー。審査員からは「美しい音の響き」と「丁寧な演奏」、そして「曲を大切に想う気持ち」が評価されました。

米津先生と。先生がYouTube配信しているスタジオにて

北海道出身の今井さん。小学校2年生のときにピアノをはじめました。自宅にあったピアノ名曲集のレコードの一曲目に「エリーゼのために」が収録されていて、「この曲が弾きたい」と思ったことがきっかけです。近所のピアノ教室に通いましたが、「先生には、コンサートに連れていってもらったりして可愛がっていただいていたのですが、レッスンはとても厳しくて、毎週何かの戦いにいくような感じで(笑)。練習が不十分だと、足取りが重かったのを覚えています」。でも、厳しいからやめたいと思ったことはありませんでした。何より、ピアノが好きだったからです。

中学2年生。発表会でショパン「スケルツォ第2番」を演奏

音楽の道に進む選択肢もありましたが、一方で数学や物理が好きだった今井さんは、高校2年生のとき一度ピアノをお休みします。いずれまたはじめたいと考えていたものの、大学を卒業し就職してみると、30代40代は帰宅が終電になるほど仕事が忙しく、再開のタイミングを失ったと言います。60歳の定年の頃には……と考えていたところ、「50歳になったときに会社で、“これからの人生を見直してみましょう”という研修があって、60歳で再開したらリハビリで終わってしまうなと。それなら50歳からすこしずつやっていったほうがいいかな」と再開を決めます。「毎日10分でもピアノを弾くようにしたら、だんだん指が動き出して、楽しくなって。それでハマりました」。

とはいえ「ピアノはそう簡単に弾けるようにならないもの」と今井さん。50代でちょっとやったくらいでは、1日何時間も練習していた10代のころと同じようには弾けないとわかっていたものの、運動能力の低下を実感。再開して8年ですが、かつてのように指はまわらないのだと期待しすぎず、でもまだ頑張ってみようという気持ち、両方を受け入れています。「自分が頑張ったぶん、ちょっとだけでも成長できていると感じられる幸福感が原動力。体力が落ちたり頭の回転が遅くなったりということを実感することが増える中高年のアマチュアピアノ愛好家ならではのモチベーションではないかと思います」。

今井さんが感じるピアノの魅力は、音そのものはもちろん、打鍵を変えることでいろいろな音色がだせるところ、そして音のバランスで和音の印象を変えられるところ。さらに、「長く組織で働いてきた身としては、いろんなことを自分だけで決められることも魅力のひとつです。チームプレーで大きな仕事をこなすことにも意味はありますが、上司の意見や会社の方針によっては、自分の気持ちと違う対応をしなくてはいけないこともあるので……自分がこう演奏したいと思えば演奏できるし、限られた時間の中でどれだけピアノに充てるのか、そこでどんな練習をするのか、全部自分で決められて、結果も自分に返ってくる」。すべてが自分次第であるという点も、今井さんにとって他にはない魅力です。

いまは、自分で自由に使える時間の多くをピアノとジム通いに費やしています。「ストレスが溜まると暴飲暴食になりがちなので……食生活も見直して、身体と心の健康を意識するように」と30代ではじめたジムには、週に2、3回のペースで通っています。ピアノの練習は、コロナ禍以降、在宅勤務がメインとなり通勤時間が減った分、平日でも時間を確保できるようになりました。レッスンやサークルへの参加も含め、自分のペースで向き合っています。

2022年1月の島村楽器コンクールにて
ゲストピアニストの宮谷理香さん、2年前から師事している藤浦有花先生と

先生探しには、はじめ難航しましたが、「現在師事しているお二人の先生と出会えたこともほんとうに幸運でした。ご自身も素晴らしい演奏家であり、レッスンは丁寧でありながら時には辛辣な比喩を交えて的確なアドバイスをしてくださいます。心から感謝しています」と今井さん。さらに、「ピアノを通じてたくさんの人と出会えたことも、予想外の楽しみにつながった」と言います。学生時代を除くと、就職後に出会うのは仕事関係の人だけだったのが、ピアノを再開したことで、いままで知り合うことのなかったような人とも知り合えました。「主婦の方も含めて仕事をしながら真摯にピアノと向き合っている魅力的な方々ばかり。皆さんから刺激をもらっています」。

サークルの弾き合い会

今井さんは昨年、腱鞘炎になり、思うように練習ができませんでした。数か月弾くのを控えたり、ステロイド注射を打ったりしましたが、悪化してピアノが弾けなくなるのではと不安だったと言います。今年に入って手術をし、順調に快方に向かっていて、ほっと安心しているところです。「まもなく60歳になるけど、60歳でピアノを再開する予定だったのが、51歳で再開できたのは上出来。平均寿命を考えればまだまだだけど、何があってもおかしくない年齢だし、とても貴重な時間に突入している。だから、このまま地道に謙虚に楽しく続けていきたい。弾きたい曲がたくさんあるので、すこしずつチャレンジしていきたいです」。

 

自分の意志で決められることでも、“いつかまた”が叶えられないことはよくあります。どこかであきらめ、その現実を受けいれ、そうして大人になっていく……。でもやっぱり、自分の意志で人生は変えられるのですね。今井さんのお話からは、そばにピアノがあることで、今井さんの生活に彩りが感じられました。いくつになっても楽しくチャレンジを続ける姿勢、見習いたいです。

※文中の学年・年齢は、エントリー時のものです。
※インタビューは3月下旬に行いました。

全国大会での今井裕さんの演奏はこちら